Coffee Break Essay





 「忠臣蔵 梶川与惣兵衛の功績」


 たとえばクイズ形式で。

「三月十四日、十二月十四日、二月四日といえば?」

 この問題に、「元禄赤穂事件」または「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」と答えられる人は、どれくらいいるだろう。年配者を除くと、その正解率はかなり低いはずだ。これを平成生まれに限定すると、惨憺(さんたん)たる結果になることは間違いない。その数字を知りたくもないが。

 元禄赤穂事件とは、数ある日本の美談の中で、史上類例を見ない傑出した美談である。日本人の精神の骨格をなしてしまった話、といっても過言ではない。(と、大上段に構えてしまったが、今の私、日本の美談と聞いて思い浮かぶのは、「忠犬ハチ公」くらいである)

 事件の大筋は次のとおりである。

 元禄十四年(一七〇一)三月十四日、江戸城松の廊下にて赤穂藩主浅野内匠頭(たくみのかみ)が、高家肝煎(こうけきもいり)吉良上野介(きら・こうずけのすけ)を斬りつける「刃傷(にんじょう)松の廊下事件」が発生。この殿中抜刀事件に対し、浅野内匠頭は即刻の切腹を命じられる。さらに赤穂藩は取り潰しという厳罰が下された。一方の吉良上野介には、何らお咎(とが)めがなかった。

 この幕府の沙汰を理不尽とした大石内蔵助(くらのすけ)以下四十七人の赤穂義士が、翌元禄十五年十二月十四日に本所の吉良邸へ討ち入る。上野介の首級(しゅきゅう)をあげ、主君の無念を晴らした一行は泉岳寺に向い、浅野内匠頭の墓前に報告をする。世にいう「吉良邸討入り」である。

 その後、大名四家に分散してお預けとなっていた義士に切腹が命じられ、元禄十六年二月四日、義士たちは主君の眠る泉岳寺に葬られた。以上を総称して「元禄赤穂事件」という。後に人形浄瑠璃や歌舞伎の演目となった「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」から、「忠臣蔵」と称されるようになる。

 ちなみに「仮名手本忠臣蔵」の「仮名手本」とは、仮名すなわち「いろはにほへと」の四十七文字と四十七士が掛け合わされている。また、いろは歌を七文字ごとに区切り、その一番下の文字を順に読むと「とかなくてしす」となる。つまり「咎(とが)無くて死す」を隠喩(いんゆ)する。さらに、幕府の禁令により登場人物が実名でなく、仮名(かめい)だったことを暗に示唆している。また、「忠臣蔵」とは、蔵いっぱいの忠臣という意味合いと、大石内蔵助の「蔵」を掛け合わせたものである。

 だから何なの、といわれてしまえば、元も子もないのだが。

 かつての日本人は、ここまで話しただけで、血湧き肉躍る感情に突き動かされた。

「クリスマス・イブ? 無礼者ッ! 耶蘇(やそ)教に加担して何が面白いッ!」

 昭和の中ごろ、高度経済成長になる前までは、十二月は二十四日のクリスマス・イブより、十四日の討入りの方が圧倒的に日本人の心を魅了していた。昭和七年生まれの亡父は、毎年十二月十四日が来るたびに、ハッとした顔で日めくりカレンダーを睨(にら)みつけ、

「あッ、討入りだ!」

 と言うのが常だった。

 刃傷松の廊下事件をもう少し拡大してみる。

 元禄十四年三月十四日の午前十一時ころ、江戸城松の廊下で吉良上野介と江戸城留守居番であった旗本、梶川与惣兵衛(よそべえ)がたまたま立ち話をしていた。そのとき、上野介の背後から、

「このあいだの遺恨、覚えたるか」

 といって浅野内匠頭が猛然と斬りかかってきた。与惣兵衛はその咄嗟の出来事に、

「なりませぬッ、浅野様ッ! 殿中ですぞッ!」

 内匠頭を羽交い絞めにし、ニの太刀を阻止した。(斬りかかって来たのが内匠頭であると与惣兵衛が知ったのは、少し後になってからであるので、与惣兵衛のセリフは実際は違っていた、というのが史実である)

 このとき、与惣兵衛の阻止が失敗し、吉良上野介が絶命していれば、後の世を熱狂させた「忠臣蔵」は存在しない。そういう意味では、この梶川与惣兵衛の功績は計り知れないものがある。江戸期の文化が、恐ろしく殺風景なものになっていたことは言うに及ばず、当時の一般大衆のモチベーションもずいぶんと違った様相を呈していたはずだ。さらに時代が下って、長谷川一夫、三船敏郎、片岡千恵蔵、萬屋錦之介などという銀幕の大スターが、これほど精彩を放つものになっていたかどうか、怪しいものである。

 忠臣蔵がもたらした経済効果は、嵐やEXILE、AKBが百本の束になってかかってきても、到底太刀打ちできるものではない。何せ、「仮名手本忠臣蔵」以来、二五〇年以上の超ロングセラーだったのだから。日本人の血湧き肉躍る話だった。ただの話ではない。特筆すべき美談だった。昭和四十年代ころまでは。

 刃傷事件があった当時、内匠頭の二の太刀を阻止した与惣兵衛に対する世間の風当たりは強かった。「討たせてやるのが武士の情けというもの」という批判である。赤穂の義士たちからも、上野介の次に梶川を討つべしと恨みをかっていた。

 ただ、与惣兵衛にしてみれば、幕臣という立場上、殿中の法度(はっと)を破った者が目の前にいて、それをただ傍観しているわけにはいかなかった。後の譴責(けんせき)処分を恐れたわけではなく、反射的に勝手に体が動いてしまったのだ。

「かりにも五万石の大名を、無体に組み留めるとは何事か!」

 畳の上に組み伏せられながら必死に叫ぶ内匠頭の声は、与惣兵衛の耳には届いていなかった。与惣兵衛も必死だった。

 満員の通勤電車の中で痴漢を取り押さえた男が、お前の気持ちはよくわかる。だが、ここでそれをやっちゃいけないんだよ、といった同情にも似た心の囁(ささや)きが、与惣兵衛にもあったに違いない、とは思うのだが。

 今でも忠臣蔵のDVDなどを見ると、内匠頭を羽交い絞めにする与惣兵衛に、「離してやれよ、与惣兵衛!」という切ない心の叫びを上げてしまう。梶川与惣兵衛の行為こそが、この芝居の第一弾の枷(かせ)なのである。後に四十七士が本懐を遂げ、観衆が大いに溜飲を下げるまでのフラストレーション蓄積の手始めが、この与惣兵衛なのだ。

 かつて私は梶川与惣兵衛の墓を東京・中野区の天徳院に訪ねたことがある。思いのほか小さな墓で、現在は無縁墓となっている。七百石の旗本の何とも気の毒な末路である。その場は無我夢中だったとはいえ、一直線の大真面目というのも考えものだなと、与惣兵衛の墓石の文字を指でなぞりながら、改めて思ったのであった。

 元禄十六年二月四日、それまで大名家に分散してお預けとなった義士に切腹が申し渡されたことは前述した。熊本藩邸には大石内蔵助以下十七名が預けられていた。その一党の一人、堀部安兵衛の父で義士最長老だった堀部弥兵衛の切腹に際し、介錯に当たったのが小姓組(こしょうぐみ)三百石の米良市右衛門だった。市右衛門は、藩主細川綱利の参勤の御供を命ぜられ、元禄十五年四月、たまたま江戸に上っていた。この市右衛門が、わが母方の祖に当たる。

※ 高家肝煎と勅使御馳走役について

 高家とは、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職であり、また、この職に就くことのできる家格の旗本を指した。その高家の中でも有職故実(ゆうそくこじつ)や礼儀作法に精通している筆頭格を「高家肝煎」といった。吉良上野介(六十一歳)は、その高家肝煎であった。

 毎年、将軍家から京都の朝廷へ年始の祝儀の使者を上洛させ、その答礼として今度は朝廷側の勅使が江戸城へ下向する恒例の行事があった。勅使参向というのだが、その勅使をもてなす役を勅使御馳走役という。

 式典は三日間にわたるもので、先例に従って遅滞なく、順調に運ばれなければならない。これには伝来のしきたりがあり、その知識を独占しているのが高家である。高家は諸大名を指導する立場にあり、高家としての職権で諸大名から謝礼を受け取っていた。

 勅使御馳走役は、毎年柳の間詰めの家格(三万石以上十万石まで)の大名二名に割り当てられていた。浅野内匠頭(三十五歳)はこの時、勅使御馳走役を命じられていた。

(野口武彦著「忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声」〔一九九四年 ちくま新書〕を主に参考にした)

                  平成二十六年九月  小 山 次 男