Coffee Break Essay



 『コンセントが……』




  (一)

 ミスというものは、恐ろしく単純なところに潜んでいる。それが判明した瞬間、形勢が逆転し、やり場のない状況に陥り、穴に入りたくなる場合がある。

「大変です。POS(端末)が作動しないンです。朝から手書きで伝票を書いていて、もうパニックです」

 仕事でこういう電話を何度、受けたことか。電話口の声はかなり焦っている。次々に来るお客さんを捌くのに目いっぱい。こちらも機械に明るいわけではない。総務の仕事は、何でも相談窓口、悪く言えば雑用係の感がある。

「落ち着いて。――まず、何かキーを押してくれる。……反応は?」

「だから、何にも動かないですよ」

「では、全てのスイッチを一旦オフにして、十秒後に入れ直して」

「何度もやったンですよ」

「じゃあ、メイン電源も一度落とそう」

 しばらくこういうトンチンカンなやりとりが続く。

(これは、かなり深刻な事態だ。たぶんハードディスクがやられている……)

「メーカーの保守を大至急呼んでくれる。すぐそっちへ向かうから」

 こうなると、現場の焦りがこちらにも伝わり、色めいてくる。バックアップ用のフロッピーを持ち、東京から新幹線で横浜に駆けつける。現地に着くと、まだサービスマンが来ていない。

「何やってンだ、こっちは大変なンだ。早く来てくれ」と保守会社に何度か催促し、「今出ました」という返答に、「ソバ屋の出前じゃないンだから」と文句をいいながら、無理やり急がせる。汗だくでやってきたサービスマンに「何だ、お前のところの機械は。……高い保守料払ってンだからもっと早く来てくれよ」と言いながらそれでも収まらず、「損害賠償モンだぞ」と脅す。

 恐縮しきった若いサービスマンの額からは、滂沱の汗が。

 何やら機械を眺めていたサービスマン、

「あの……、コンセントが……抜けてました」

 と、バツの悪そうな声。

「……」

「結構あるンですよね、この現象」

 と、抜けたコンセントをこれ見よがしに振って見せる。こちらの引きつった顔を見透かし、相手は完全に勝利に満ちている。悪かったねと冷たい缶コーヒーを差し出し、何とかごまかそうとする始末。

 パソコンのディスプレイが真っ黒になって、サービスマンに来てもらったら、コントラスト(明暗)のつまみを動かしただけで元に戻ったなど、こんな話しは枚挙に暇(いとま)がない。

  (二)

 高校生の頃、インベーダーゲームなるものが大流行した。

 従兄の兄と妹が、ゲーム機を挟んで夢中で操作ボタンを連打している。あまりの白熱に、ゲーム機がひっくり返るのではかいかと思うほど。

「オニーちゃん、ずるいよー」

「ウォー……二千点、二千点。行った、行った……」

 ゲームというものに全く興味のない私は、半ば呆れて二人の様子を傍観するばかり。ゲームが終盤に差しかかり、いよいよ佳境に入ったかと思われた頃、私は缶ジュースでも買おうかと立ち上がった。そのとき、私の足に何か強い抵抗を感じた。

「ワー、二千九百。イケル三千、新記録。三千、三千、サン……」

 と言う声が、途切れた。見ると画面が真っ暗になって、二人はゲーム機の画面を額をこすりつけるようにして覗き込んでいる。何が起こったのか理解できない様子。

 足元を見ると、私の足にコンセントが絡まっていた。(いくら何でも、これはマズイ)何食わぬ顔で、コンセントを刺し込むと「プシュー、ピッピッ、キューン」という音がして、ややあってスタート画面が表示された。何が起こったのかそれでも呑み込めぬ二人に「コーヒーでも飲む?」と訊いたが、二人からは何の反応も返ってこない。マヌケを絵に描いたような放心の態だった。

  (三)

 三浦綾子の代表作、『塩狩峠』。

 北海道の石狩と天塩の国境を走る宗谷本線で、事故は起こった。明治四十年、列車が塩狩峠に差しかかったとき、最後尾の連結が外れ客車が暴走を始めた。たまたまその暴走車両に国鉄職員の青年、長野信夫が乗り合わせていた。長野は業務上の使命感とクリスチャンである信仰心から、自分が車輪の下敷きとなって乗客の命を救った。長野はその日、結納のため婚約者の待つ札幌へ向かう途中だった。実話に基づく小説である。

 私はこの本を、高校の寮のベッドに寝転んで読んでいた。溢れる涙で文字がかすみ、読み進むのにえらく難渋した。この小説はその後、映画化された。

 数年後、故郷で行なわれたクラス会で『塩狩峠』の想い出を語ったのは、幼なじみのA子であった。

 A子が、専門学校の仲間に誘われ、数人で『塩狩峠』の八ミリ映画の試写会に出かけた。場所は、とあるキリスト教会が主宰する札幌市内の小さな会場。その日A子は、朝から腹の調子を崩していた。一旦は落ち着いたかに見えた腹が再び痛み出したのは、映画が半ばに差しかかったころだった。いよいよ終盤、話しがクライマックスにおよぶころ、A子にその日最大の高波が押し寄せた。限界を感じたA子は、やむなく席を立った。

 静まり返った会場のあちらこちらから、洟をすする音が聞こえる。会場全体が大きな感動の渦に包まれていた。席を立ったA子は邪魔にならないように身をかがめ、薄暗い会場の後ろを目指した。突き当りを曲ると出口があった。A子が小走りになった瞬間、足首に大きな抵抗を感じ、前のめりに躓く。薄暗かった会場が、一瞬にして真っ暗に。何が起こったのかわからない。

 闇の中で静寂が流れた。蹲るA子の手には、足首に絡まったヒモのようなものがあった。そのヒモが、コンセントであることにA子が気づいたとき、会場にざわめきが起こりだしていた。まずいことになったと思ったA子は、闇に乗じて出口からすり抜けた。映写が終わるまで、場内には入れなかったという話。A子の話によって、クラス会は大いに盛り上った。

  (四)

 最近、夫の様子がどことなくぎこちない。そう考えると、不自然に優しいときがある。浮気だ。愛人がいることは、間違いない。B子は確信に満ちていた。口ではかなわぬ夫に誤魔化されないためには、有無を言わせぬ決定的な現場を押さえる必要がある。

 以来、B子は会社帰りの夫の尾行を開始した。そしてある日、とうとう女のアパートを突き止めた。

「明日から出張だ」

 帰宅後、そう言われ、いつになく優し気に接してくる夫に、B子の感が働いた。

 翌日、生命保険のセールスを装って夫の会社に電話し、夫が会社にいることを突き止める。踏み込むなら今夜だ。満を持して、B子は女のアパートへ向かった。

 女の部屋には、すでに灯りがともっていた。しばらく待つうちにその電気が消えた。時計を見ると、まだ九時を回ったばかり。いよいよその時が来た。B子の心臓は高鳴った。

 B子はどうやって女の部屋に入るか、アパートの外でずっと思案していた。女の部屋は三階の角部屋。非常階段から柵を乗り越えれば、女の部屋のベランダに出られそうだった。

 ことは思うように運んだ。しかも、入ってくださいと言わんばかりに、ベランダの鍵が開いていた。A子はそこから寝室に向かった。そっと覗くと、薄暗い寝室のベッドの蒲団が大きく盛り上がっている。目を凝らすとその蒲団が大きくうごめいている。意を決したA子は、

「何やってるのよ!」

 と発しながら、勢いよく蒲団をめくった。そこには素っ裸の夫が女の上に覆いかぶさっていた。

「何が出張よッ!」

 顔を上げた夫の目に、もの凄い形相の妻の顔が飛び込んできた。夫は慌てふためき声を出そうとするが、アワアワと言葉にならぬ。女は手で顔を覆ったまま丸くなっている。

「お前、何でここに……」

 やっと言葉を発した夫の声も届かぬくらいB子はひどく取り乱し、泣き喚きながら夫を叩いている。

「……おい、おい、ちょっと待ってくれ。冷静になれって……」

 冷静という言葉を聞いて、B子はいっそう頭に血が上った。噛みつかんばかりのB子に、

「……ほら、俺はまだやってないンだってば。まだ入れてなかったンだよ」

 夫は、究極の言い訳をしたのであった。

                 平成十六年十一月立冬   小 山 次 男