Coffee Break Essay



この作品は、20141120日発行の雑誌「いぶり文芸」第45集(胆振芸術祭実行委員会)に掲載されております。


 
父の死と卒業

 一九八二年十一月十日、とっぷりと暮れた京都の四条河原町で、私は一枚の号外を手にしていた。それはソ連(現ロシア)のブレジネフ書記長の急死を報じるものだった。

 その日私は、紅葉が色づき始めた嵐山で、一日遊び呆けていた。卒論提出のちょうど一ヵ月前のことで、しばらく図書館にこもる生活をしており、誘われるままに友達と嵐山へ繰り出したのである。こういえばずいぶん格好いいが、実際のところは勉強不足がたたって、身動きがとれない状況だった。

 京都での最後の秋を満喫したという思いに浸った帰り、期せずして受け取った号外だった。卒論のテーマが米ソの軍備拡張政策に関する内容だったこともあり、ブレジネフの死に、私は少なからぬ衝撃を受けていた。

 アパートに帰った私に、さらなる追い討ちが待っていた。父の入院を告げる北海道の母からの電話だった。

「ビックリしないでね。父さんね、調子悪くて……今日入院したんだわ。あんたが心配するからって、調子悪いの、ずっといってなかったんだ。先生がね……年越せないって……」

 そこまで話した母は、電話口で泣き崩れた。

 父は、十年ほど前から慢性肝炎を患っていた。それが肝硬変へと移行し、すでに末期と診断されたのだ。とうとう来るべきときが来たか……。年を越せないとは、あまりにも性急なことだった。

 実はそのとき、提出期限が迫る卒論に、まだひとつも手をつけていなかった。資料集めをしながら、最後の一ヵ月で書き上げる段取りをつけ、遊びに出かけていたのである。

 翌日、担当教授に相談に行くと、

「何でもいいから、論文用紙を埋めて出せ。事務長には話をつけておく。とにかくすぐに帰れ」

 という恩情の言葉だった。

 私には、卒論に期する思いがあった。「何でもいいから」がどうしてもできなかった。

 「まだ、死ぬなよ」と念じながら、夜に日を継ぎ机に向かった。自分が今食べているものが夕食なのか朝食なのか、一日二十四時間という生活サイクルを全く無視した生活が始まった。

 一週間後、論文が仕上がった。その間、教授からは「何をしている、早く出せ」という催促の電話が二度あった。

 卒論を提出した日、私は突然の高熱を発した。翌日になっても熱が下がらない。やむなく病院へ行くと、

「肝機能障害です。このまま入院できますか」

 予想もしない医師の言葉だった。父と同じ肝臓障害という診断に愕然とした。原因は、過労によるものだった。医師に事情を説明し、紹介状を手に、北海道へ戻った。

「なんだ、父さん、(入院したって聞いて)ビックリしたよ。まあ、ゆっくり休みな。オレの方は、卒論も終わったし、このまま冬休みが終わるまでいられるから……」

 半年ぶりに会った父は、老け込んでいた。五十歳の父の顔にしみが浮かび、七十代の老人に見えた。

 父に内緒で外来治療を行いながら、そのまま夜まで父に付き添う生活が始まった。仕事を持っている母は、夜から朝までを受け持つ。妹はすでに札幌で就職しており、父の看病にはつけなかった。

 看病といっても、ベッドの傍らにいて父に頼まれる細々としたものを買いにいく程度で、それほど厄介なことはなかった。

 わがまま放題の父は病院食を一切口にせず、母が作る食事しか食べない。肝臓疾患用の病院食は、もっぱら私が引き受けた。ほかにすることがないのを幸いに、日がな法律の専門書を読みふけった。

 卒論を提出し終えた私には、もうひとつの大きな試練が待っていた。卒業が危うかったのだ。帰省したとき、私のリュックには大量の専門書が詰まっていた。後ろに身体を反らすと、そのままひっくり返るほどの分量だった。

 私は、大学に入ると同時にESS(英語研究部)に所属した。どういう風の吹き回しか、三回生のときに京都の連盟の仕事をすることになり、同時に西日本の連盟の幹部も兼ねていたので、年中、関西一円の大学を飛び回っていた。

 この活動により、多くの友達を得たのだが、その代償に、三回生での学科の単位をことごとく落とした。夏が過ぎ、冷たい秋風が吹くようになって、ようやく教室に出向き、

「ここは、民事訴訟法の○○先生の講義ですよね」

 などとマヌケな質問をして、教室を確認しなければならなかった。急病で亡くなっている教授もいた。訊かれた女の子は、あきれ果てた顔で私を眺めていた。

 大学のクラブ活動は、実質三回生で終わりになる。四回生を迎えた私の前には、ウンザリするほどの専門書の山が積まれていた。父の死を目前にして、留年はできない。就職もすでに内定していた。卒業が絶対命題だった。これは人生の一大事と、専門書との格闘が始まった。

 肝機能障害の者が、長時間本を読むなどご法度なのだが、そんなことはいっていられない。父も「必死」であれば、息子も「死にもの狂い」である。もちろん両親には卒業が危ういとは、おくびにも出せない。父の傍らで、黙々と勉強する私に、

「息子さん、もの凄い勉強家だなぁ。たいしたたまげたぁー」

 病室の患者たちが、口々に私を褒め始めた。大学生などめったに目することのない田舎なので、なおさらである。

「毎日、お父さんのお世話をして、感心な息子さんですね。とっても勉強熱心で……」

 看護師が追い討ちをかけた。回診に来る主治医は、司法試験の勉強ですか、と大真面目に訊いてくる。冗談ではない、そんなレベルの問題ではないのだ。本当のことがいえないもどかしさに歯噛みした。

 年が明け、試験直前に京都へ戻る。アパートでは、夕方起き出して朝まで勉強し、そのまま学校へ行き試験を受ける、そんな究極の一夜漬け生活を二週間続けた。

 試験を終えた私に、アパートの引き揚げが待っていた。思い悩んだ末、荷物を実家に送らずに、東京の会社の独身寮に直接送った。一月下旬のことである。留年したら荷物はどうなる。そればかりが気がかりだった。

 北海道に戻って、自宅と病院を往復する生活が再開する。急に勉強を止めるのもバツが悪いので、分厚い小説を読みふけった。幸い試験には合格した。嬉しくて気絶するかと思った。だが成績は、親に見せられたものではなかった。

 私の勉強ぶりを目の当たりにしていた父が、卒業式へ行けとしきりに勧める。

「オレは残念ながら総代に選ばれなかったから、卒業式には出なくても大丈夫なんだ。大学とはそういうところだ」と大ボラを吹いた。京都から東京へ荷物を送る日、私は学部事務室に出向き、卒業証書の郵送手続を済ませていた。最初から卒業式に出席しない覚悟だった。これ以上、親には負担をかけられない。大学の多くの仲間とは、別れの言葉もなくそれっきりになってしまった。

「すでに肝臓が機能していないはず。生きているのが不思議なくらいです」

 主治医が首をかしげるうちに、父は五十一歳になった。春休みが終わり、上京の日が近づく。

 社会人として東京へ向かう日の朝、病院に立ち寄った。もうこれが最後だと覚悟してベッドを覗き込むと、

「お前を東京へ行くように仕向けたのは、失敗だった……」

 背広姿で現れた私に、父は思わず弱音を吐いた。サラリーマンになるなら、一度は東京へ出ろ、といっていた父だが、本当は私を手放したくなかったのだ。

「ゴールデン・ウィークには帰ってくるから」

 と握手し、笑顔で病院を後にした。

 一両編成のローカル列車に飛び乗った私は、大きな鞄をドッカリと座席の隣に置き、履き慣れない革靴を脱いで前の座席に足を投げ出した。顔をハンカチで覆い寝込むそぶりを見せ、とめどない涙を流していた。私が病室を去った後、父は蒲団を被ってしばらく泣いていた、と後日母がいっていた。

 東京で生活を始めると、私の肝機能の数値は正常に戻っていた。ゴールデン・ウィークも休まずに働き、六月に入って初めて帰郷した。父はその後傾眠を繰り返し、私が戻ってもどうにもならない状態だった。父の意識が明瞭になった、会うなら今だ、という母からの電話で北海道にとって返した。

 私のふるさと様似は、飛行機を使っても九時間の行程である。病院に着いたのは翌日の夜だった。

 病室に入ると、父は蒲団にもたれて半身を起こした。私が調子を尋ねると、

「それがな、俺はもう少しで死ぬとこだった」

 と真顔でいう。私が笑うと、冗談じゃないんだ、と表情を崩さなかった。そして父は、テレビのスイッチを入れるよう母に命じた。プロ野球のナイトゲームが行われていた。

「また、巨人が負けてるな」

 そういって振り返ると、父は蒲団にもたれながらもう寝息を立てていた。それが父との最後の会話となった。再び傾眠状態に陥ったのだ。一時的に意識を戻した父は、私が帰ってくるという母の言葉に、最後の力で待っていた。それから一週間後、父は死んだ。

 父の死がなければ、私は卒業はおろか就職もままならなかった。今になって、そんなことを思っている。


              平成十七年十月 寒露  小 山 次 男


  追記

  平成十九年六月 加筆   平成二十六年月 再加筆