Coffee Break Essay


この作品は、「室蘭文藝」47号(20143月発行)に掲載されております。

 

  「父の算盤」


 昭和五十八年六月二十八日、父は五十一歳で生涯を閉じた。

 十年ほど前から患っていた慢性肝炎が、末期の肝硬変に移行していた。北海道の実家の隣町の総合病院に入院したのが、前年の十一月である。年を越せないといわれながら、もち堪えていた。その間、私は遠く離れた京都で、卒論と卒業試験に忙殺されながら、かろうじて大学を卒業し、東京の会社へ就職した。

 新入社員研修が一段落し、やっと仕事に慣れ始めたころ、母からの電話で実家に呼び戻された。

 それまで父は、いくたびか傾眠状態を繰り返し、最後はそれが一週間におよんだ。そして突然、高鼾(いびき)をかきはじめた。昏睡状態に陥ったのだ。半分開いた父の目には、もう何も映ってはいなかった。父の鼾が、病苦から解放された安堵の寝息に聞こえた。いよいよ逝くのだなと思った。

 父の周りには、母と私と札幌から駆けつけていた妹、それに泊り込みで付き添ってくれている伯母がいた。さらに、長年漁師をしていた父の友人が、その日たまたま見舞いに来ていた。

 誰もが、父の死が目前に迫っていることを感じ取っていた。そしてその瞬間を、固唾を飲んで見守った。窓の外には、寒々とした灰色の海が白波を立てているのが見えた。夕暮れが近づいていた。

 鼾をかき出してから二時間、その鼾が突然、止んだ。父の上に次に起こる変化に全員が緊張した。父を襲う断末魔の苦しみを恐れたのだ。私は慌ててナースコールのボタンを押していた。

 ところが、予想に反して父は穏やかだった。鼾が止まった直後、深呼吸のように大きく長い息を「フーッ」と吐いた。長い長い息だった。しかも次の息を吸うことなく、続けて二度、ゆっくりとそれを繰り返した。痩せ細った身体のどこにそれだけの息が蓄えられているのか。私は驚きをもってその状況を見守っていた。三度目を静かに吐き切って、父は動きを止めた。

 慌てて入って来た看護師が、「アッ」と小さな声を発し、別の看護師に医師を呼ぶよう指示している。ややあってノッソリと入って来た五十代の主治医が、慣れた手つきで脈を診、瞳孔を確認した。それから医師はベッドに上がり、父をまたぐ格好で心臓マッサージを開始した。それは思いのほか強い力だったので、父がまるで生きているかのように、ベッドの上で飛び跳ねた。

 みんなが医師の措置を見守る中、私は病室の天井の隅を眺めていた。父の視線をそのあたりに感じた気がしたからだ。カーテンを閉め忘れた窓の外は、すでに真っ暗になっていた。北海道の六月は、まだ暖房が必要な寒さだった。

 医師は執拗に心臓マッサージを続けた。そんなことをして何の意味があるのか。たとえ父が一時的に蘇生したとしても、どうにもならないだろう。

 私は傍らの母に向って小さく首を横に振った。

「先生……もういいですよ……」

 母の言葉を待っていたかのように、医師は動きを止めた。ベッドから降りて腕時計を覗き、改まった顔で臨終を告げ、深々と頭を下げた。父の死が確定した。

 やっと父が楽になれた、という安堵感が私の胸を占めていた。医師は父の手を胸元で組み合わせ、合掌をして病室を後にした。この医師にとって父の死は、ごく一般的な平凡な臨終のひとつでしかない。この後、何事もなかったかのように、夕食の続きを始めるに違いない。そんなことを考えていた。

 このときから父は、「仏さん」と呼ばれる存在になった。傍らに横たわる父はもう父ではなく、単なる「亡骸(なきがら)」であった。父の魂は、長い吐息とともに身体を離れたのだ。父の骸(むくろ)は、刻々と腐敗を開始してゆく。生者に対し、死の受け入れを促すかのように。

 それから数日、父は多くの人に拝まれ、荼毘(だび)に付された。不思議と悲しみはなかった。生前、私は父と会話らしい会話を交わしたことがなかったのだが、父が姿を消してから、その存在を身近に感じるようになっていた。私はひと七日が終るまで郷里に留まった。

 二週間ぶりに東京に戻った私に、七月の配置換えで新しい仕事が待っていた。挨拶もそこそこに、持ってきた段ボールの荷物の整理をしていると、古ぼけた算盤(そろばん)が出てきた。父が長年会社で使っていたものを、持ってきていた。使い込まれて飴色になった、深い光沢のある算盤だった。

 幼いころ、父の帰りを待ちわびていたときも、父は会社でこの算盤に向かっていたに違いない。

「アッ、おとうさんだ!」

 母に寝かせつけられている蒲団の中で父のオートバイの音を聞きつけて、妹と二人で玄関に飛び出して行った遠い日々……

 二人の子供を進学させ就職を見届けつつ、一家を支えていた算盤である。そんな親の思いも知らずに、随分と反発したなと思ったとたん、突然涙が込み上げてきた。トイレへ駆け込み、冷水で顔を洗った。鏡に映る自分の顔を見ながら、これからはひとりで生きて行かなければならない、と思った。

 あれから二十数年の歳月が流れ、事務所から算盤を弾(はじ)く音が消えた。算盤は、もうだいぶん前に、パソコンに取って代わられた。でも父の算盤は、護り刀のように今も会社の引き出しの中にある。


                平成十七年十月 霜降  小 山 次 男

  追記

 平成二十一年九月、「父の臨終」を加筆、改題した。平成二十六年三月、再加筆