Coffee Break Essay




 チチの料理


 私が敬愛する作家には、料理作りに傑出した人が何人かいる。立原正秋や檀一雄がその代表選手だ。

 檀一雄は、女優檀ふみの父親である。最後の無頼派と呼ばれた作家で、太宰治や坂口安吾、織田作之助らと親交があった。それゆえ、生活は破天荒(はてんこう)だった。

 独身のころ、檀一雄の代表作である「夕日と拳銃」が読みたくて、神田神保町の古本屋街を歩き回ったが、とうとう見つけることができなかった。ほかの著作を何作か見つけたが、いずれも一万円以上の値がついており、買えなかった。

 そのうちに全集を扱う店で、檀一雄全集を見つけた。本棚の最上段に整然と並んだ本は、全八冊で七六〇〇〇円という値札が下がっていた。何ヵ月もその全集を見上げていたが、とうとうボーナスで買ったという経緯がある。次にその店を訪ねたら、新たな檀一雄全集が並べられており、八四〇〇〇円の値札が付いていた。

 会社の社宅が空いたので、上司から入居を打診された。社宅といっても、プレハブ住宅に毛の生えたような、古くて汚い二世帯の住宅である。当時、私は杉並区和泉のボロアパートに住んでいた。むかし、ドリフターズの「八時だよ、全員集合」に出ていた長屋のようなアパートだった。だがそこは、京王線の明大前駅に近く、都心へのアクセスは抜群によかった。それゆえ、練馬には大きな抵抗があった。

 練馬の社宅周辺を調べていると、檀一雄宅の近くであることがわかった。もうそれだけで、二つ返事で承諾した。檀一雄はすでに亡くなっていたが、それでもよかった。檀一雄に高じていた私は、娘がもの心ついたころから、私のことを「チチ」と呼ばせていた。それは、檀一雄がふみら子供たちに呼ばせていたことに倣(なら)ったものだった。

 やがて、周りの子が「パパ、パパ」というようになる。娘も私のことを「チチ、チチ」と呼んでいたが、長じると人前では「チチ」と言わなくなった。他人と違うけったいな呼称が、恥ずかしくて言えなくなったのだ。悪いことをしたと悔いたが、あとの祭りだった。

 檀一雄のエッセイに触発されて、何度か料理を作ったことがある。男の料理ながら、その繊細さに憧憬(どうけい)にも似た思いを抱いていた。なかでも簡単に作れるイカ料理は、今でも思い出したように作っている。

 料理は得手(えて)ではない。二十七歳で会社の独身寮を出、一人暮らしを始めた。外食に飽きて自炊を始めたのだが、料理というにはほど遠い代物を作っていた。深刻な野菜の摂取不足を憂い、電話で実家の母にほうれん草のおひたしの作り方を訊いたことがあった。

「あんた……」

 母は、そんなものも作れないのか、という驚きと不憫(ふびん)さの入り混じったため息をついた後、その声は涙声に変わった。以来、二度と母に料理のことは訊いていない。

 私は、料理が苦手である。だが、娘が小学二年生のとき妻が精神疾患に陥って、家事の一切を引き受けることになった。当然、料理も作らなければならない。妻が入院している間、娘と二人だけの食事が始まった。そのとき、私はとんでもない料理を数多く作った。見た目がひどく、味も悪い。しょっぱすぎる。甘すぎる。味がない。全体的に焦げ臭い。万事、こんな調子だった。これまで料理をしてこなかったので、当然、失敗する。料理のセンスがなかった。

 電車と地下鉄を乗り継ぐこと三本、片道一時間の通勤であった。大急ぎで会社から帰ってきて、慌てて夕飯を作る。疲れ果てた青白い顔で、無我夢中で台所に立っていた。

「ゴメン、また、失敗しちゃった」

 といって見た目の悪い料理をテーブルに並べる。そんな夕食を、娘は嬉しそうな顔で食べる。

「チチの料理、おいしいね」

 娘のそんな声を聞きながら、私は自然体を装うようにして天井を仰ぐ。あふれる涙をぬぐっていた。気を抜くと嗚咽(おえつ)しそうになった。

 長い闘病生活の中で、高校生になった娘の弁当まで作っていた。娘は朝が苦手だった。十二年半の病気との生活の中で、なんとかそれなりの料理はできるようになった。結果的に妻と別れるのだが、料理に困ることはなくなった。苦手なことには変わりはないが。

 やがて娘も結婚し、会うのは年に一度になってしまった。久しぶりに娘と過ごすことがあると、

「ねえ、おにぎり作ってよ。あれ、おいしいんだよね」

 甘えた声で夜食をねだってくる。

「太るぞ」

 といいながら、重い腰を上げ台所に立つ。濡れた掌(てのひら)にサッと塩を塗り付ける。久しぶりだが、手がその感触を覚えている。小さめのおにぎりを握りながら、そっと涙をぬぐう。

 立原正秋や檀一雄に傾倒することがなかったら、ここまで頑張れなかっただろう。七六〇〇〇円の全集は、私の持っているどんな本より高価ではあったが、優れたテキストでもあった。そういう意味では、いい買い物だったのかもしれない。

                   平成三十年一月 小 山 次 男