Coffee Break Essay



 
 「母子手帳」


 先日、妹から「こんなものが出てきたんだけど」と、古ぼけた手帳を手渡された。それは、私の母子手帳だった。期限の切れた保険証券などが入った書類入れの中に紛れ込んでいたという。母が保管していたものだった。

 幼いころ、タンスの引き出しに、へその緒を見つけたことがある。マッチ箱ほどの小さな桐の箱に、干からびたスルメの切れ端のようなものが入っていた。不思議な気持ちで眺めた記憶がある。母子手帳もそれに匹敵する発見だが、五十六年を経て初めて目にするものだった。重要書類とともに、人目につかないところで大切に保管されていたことがわかる。

 母は現在、八十一歳である。平成二十年に脳梗塞を発症し、以来、ふるさと北海道・様似(さまに)を引き払って札幌の妹のもとで暮らしている。母子手帳は、戸籍謄本よりも臨場感あふれる存在証明であり、母を通過して出てきたといういわば通行認定証、パスポートのようなものだ。

 私は母の実家が営む銭湯の二階で生まれている。母子手帳の「分娩介助者」欄に「小野ヨシ」と記されている。私は昭和三十五年生まれだが、当時の様似生まれの者はこの小野ヨシさんに取り上げてもらった者が多い。私がもの心ついたころには、もう結構なお婆さんだった。とても小柄な人だったが、道端で会うたびに「あれー、大きくなったね」と声高に相好を崩されるのが、恥ずかしくてたまらなかった。

 私の両親は、今上陛下のご成婚と同じ日、昭和三十四年四月十日に結婚している。そのため、宮内庁から役場を通じて菊のご紋入りの黒塗りのオルゴール大小二つをいただいていた。それらは私が幼いころに二つとも壊してしまい、残念ながら今は残っていない。

 私はこれまで、母から生まれたときの様子を次のように聞かされていた。町に公営住宅のなかった当時、両親は母の実家である銭湯の二階に間借りしていた。妊娠九ヵ月目の一月十五日に私が生まれている。出勤する父にハンカチを持たせるのを忘れたことに気づいた母が慌てて取りにいき、階段を降りる際に足を踏み外して尻もちをついた。そのはずみで産気づき、あっという間に生まれたという。二八〇〇グラムと小さかったこともあり、安産だった、と。確かに母子手帳の「産後の母の健康状態」欄には「極軽産」と記されている。この話は、これまでに何度も聞かされてきた。

 現皇太子殿下徳仁親王は、昭和三十五年二月二十三日生まれである。私も同じハネムーンベイビーになるはずだった。だが、階段落ちの一件で、一ヵ月早く生まれてしまった。ずっとそう思っていた。この母子手帳を見るまでは。

 母子手帳には、生まれたときの体重が二八〇〇グラム、身長五〇センチ、頭囲三三・三センチ、胸囲三二・五センチと記されている。昭和三十四年九月発行のこの手帳には、父二十七歳、母二十四歳とある。家族の状況を記す欄は黒の万年筆で書かれており、それは紛れもなく懐かしい父の筆跡だった。丁寧に書かれたその文字からは、初めての子を授かった緊張感が読み取れる。

 その母子手帳をしばらく眺めていて、ある記述に目が留まった。「在胎月数」欄に「十箇月」とある。(在胎月数十箇月……)つまり、母の腹の中に十ヵ月いたということだ。私は予定通り十ヵ月で生まれていた。「出産予定日」欄には、しっかりと「三十五年一月」と記されていた。母の話に齟齬(そご)がある。

 母は、結婚する一ヵ月前に妊娠していたのだ。結果的に「できちゃった婚」なのだろうが、妊娠が判明したのは結婚後のはずだ。そもそも一月十五日は、「成人の日」で祝日だった。当時の成人の日は「十五日」で固定されていた。祝日に会社へ行くか? 父は漁業組合に勤めており、そのころは日直や宿直があった。つまり、休日出勤があった。だから、この点はよしとしよう。

 さらによく見ると、出生時間が「午後五時五十四分」記されている。朝の出勤時間に尻もちをつき、あっという間に生まれたのではなかったか。母子手帳の記載からすると、出勤時間からおおよそ九時間後に生まれている。「あっという間」ではない。もっとも「極軽産」ゆえ、陣痛が始まって「あっという間」に生まれたのだろう。母はそれを言っていたのか。しかたない、これも大目にみるとしよう。

 だが、「在胎月数」と「出産予定日」は、鋼鉄のように固く揺るぎない。誰がどう斟酌(しんしゃく)しても、母の供述は「黒」だ。

 戦前生まれの当時の男女にとって、「婚前交渉」は禁忌である。「婚前交渉」とは、男女が結婚前に肉体関係をもつことである。当時の貞操観念では許されない。ましてや「できちゃった婚」は、もってのほか。わが両親は、それを犯した。我慢できなかったのだ。

 二十七歳と二十四歳。父も若かったし、母も若かった。それで十分ではないか。今さら「できちゃった婚」という事実がわかっても、どうということはない。母にそれを質(ただ)すような無粋なことをする気はない。母の意志を継ぎ、今後も素知らぬ顔を通すつもりだ。ただ、両親の「馴れ初め」には、若干の興味がある。どのような恋愛時代を送ったのか。

 父のふるさとは松前町である。様似から松前までの距離は、三本の汽車を乗り継いで十二時間を要していた。父は札幌の漁業組合学校を卒業後、様似の小島さんという漁師の家で下宿生活をしていた。母の実家の銭湯も近かったし、職場もほどない場所にあった。

 父が様似に赴任したのは十代の後半のことだろう。それから結婚までのおおよそ十年近くは、下宿から銭湯に通っていたはずだ。母も若いころから番台に上がっており、高校時代の勉強などは、いつも番台でやっていたと聞いている。男には絶対にマネできない芸当だ。顔を上げると目の前に全裸の女がワンサカいて、そんな中で勉強が頭に入るか。高名な修行僧でも、無理だろう。

 父と母はそんな中で出会っている。その馴れ初めを聞いたことがない。照れくさくて聞けるはずもない。脳梗塞に続いて大腿骨を骨折して入院した母は、若干の認知症も入り込み、今ではすっかり枯淡の境地にいる。

 私も私の一人娘も「できちゃった婚」である。妻の妊娠が判明し、東京から母に電話したとき、「あんた、男としてきちんと責任取りなさい」といつになくビシッと言われたことを覚えている。娘が妊娠して結婚するという電話をもらったときも「私のときもそうだったんでしょ」と娘に先手を打たれ、二の句が継げなかった。娘には直接、明かしていなかったのだが、バレていた。

 私の父方、母方それぞれの祖父たちも、祖母と結婚する前に別の女性に子を産ませている。そんなDNAは、脈々と引き継がれているようだ。




 追記

 産科では、暦日の一ヵ月が三十日〜三十一日と考えるのとは異なり、四週=二十八日を「一ヵ月」と扱うというご教示をいただいた。

 調べてみると、従来用いられてきた妊娠月数の数え方も日本独特なもので、「数え月」という数え方をするようだ。つまり、「妊娠何ヵ月」と表現する場合、ゼロからではなく一から始まる。そうなると、「妊娠三ヵ月」の場合、性交渉から一ヵ月半に満たないうちにその時期に入ることになる。だが、順調に生理がある人の月経周期(生理が始まってから次の生理が始まるまでの期間)の平均値は、二十八日間であるので、妊娠期間は、ちょうど十周期分に相当することになる。つまり、妊娠十ヵ月の満了時が、分娩予定日というわけだ。理に適っているといえばそう思えなくもない。

 これらのことから、私の両親は「できちゃった婚」ではなかったのだ。現皇太子殿下もハネムーンベイビーではなかったことになる。ただ、そのように文章を直してしまうと、まったくつまらない作品になってしまう。こういう間違いも往々にしてあるということで、とりあえずはこのまま残すことにした。


                 平成二十八年九月  小 山 次 男