Coffee Break Essay

この作品は、「文芸思潮」23― 追悼河林満 ― (20085月発行)に寄稿し、収録されたものです



「ボクがそこにいたわけ」 ――作家河林満氏を偲ぶ――



 昨年(平成十九年)、ボクは文芸思潮のエッセイで奨励賞をもらった。
 今年、幸運にもまた賞をもらっていた。掬(すく)ってもらったといった方が正しいかも知れない。下位の賞なのでスピーチはないだろうと気楽に構えていたら、懇親会でお願いしますといわれた。困ったことになったと思った。

 この日、授賞式の会場に入ると、選考委員の席に顔写真が立てかけられていた。昨年、懇親会で司会を務めていた作家河林満氏の写真である。
 河林氏は、この(平成二十年)一月十六日に東京駅で倒れ、十九日に亡くなっていた。脳出血である。それでこの日、二十六日の授賞式は黙祷から始まった。作家「塊」のメンバーにとって、仲間の突然の死という現実を受け入れるには、あまりにも日数が浅い。長年、苦楽を共にした話に共感を覚え、ボクもいたたまれない気持ちに包まれていた。
 懇親会でボクの番が回ってきて、
「昨年は、ふざけた話をしたのですが、どうも今回はそんな気分になれませんで……」とスピーチを始めた。

 一月十七日夜、ボクは東京医科歯科大学病院にいた。すでに正面玄関が閉まっている時間だったので、夜間救急外来の通路を通って、薄暗い構内を出口に向かって歩いていた。そのとき、慌しい足取りで病院へ向かう二人の男性とすれ違った。すれ違いざま、その一人が文芸思潮のA氏であることに気がついた。一年ぶりであったが、すぐに彼だとわかった。ボクは反射的に駆け寄り、声をかけようとして躊躇した。一瞥(いちべつ)したA氏の横顔が、声をかけるのも憚(はばか)られるほどこわばっていたのである。人違いではないかという思いもあった。授賞式で訊ねてみようと、二人の背が救急外来の入り口に消えて行くのを見送った。
 授賞式会場の河林氏の遺影を目にし、全てが飲み込めたのである。五十七歳という若さだった。
 河林氏は、九〇年『渇水』で文学界新人賞を取り芥川賞候補となる。九三年には『穀雨』で芥川賞候補となった。
 河林氏とは一度も言葉を交わさなかったが、威勢のいいひとだな、という印象があった。
こういう人に書き続けてもらいたいと思った。
 ボクはスピーチの中で、この一月十七日の夜の話に触れると、斜め後ろにいたA氏の大きなため息が聞こえ、目頭をそっと押さえる姿が目に入った。死んだらおしまいなんだよォ、と叫びたいような衝動に駆られ、話を打ち切った。
 この夜、ボクは、午後八時の面会時間がまもなく終わる、というアナウンスに急き立てられるように病室を後にしていた。妻が入院していた。
 妻は、うつ病を発症して十年になる。重篤なうつ病で、今回の入院は十一回目になる。妻はしばしば人生に深い絶望を感じて、処方されている抗精神薬を全部飲んでしまうのだ。前回の入院も過量服薬による自殺未遂だった。七回目である。このときは、ICUに四日間いた。
 ボクが文章を書くようになったのも、妻の病気に負うところが大きい。こちらの方が先に参ってしまうという危惧が、それまでペンを持ったことのなかったボクに、エッセイを書かせるようになっていた。
 二十九歳の妻を背負い、小学二年の娘の手を引き、もう片方の手にペンを握ってきた。この生き難い状況を乗り越える最良の方法は、困難に正面から向き合うこと以外にはなかった。逃げたら、生涯苛(さいな)まれる。
 今回は、過量服薬の危険性があるので妻の意思で入院したのだが、病状が芳しくない。年末年始を自宅で過ごす予定だったが、十二月三十一日の夕方には自ら病院に戻っていた。病状の快復が進まないことに嫌気をさした妻が、十六日に治療拒否を宣言したため、ボクは医者から呼び出され、この日、会社を引けてから病院へ行っていた。治療を継続するために、任意入院から医療保護入院に切り替える必要があった。
 精神科の入院形態には、患者の意思で入院する任意入院と、医師と保護者の同意で入院する医療保護(同意)入院、さらに強制入院である措置入院があるが、入院患者のほとんどは任意入院である。加えて今回は、電気痙攣(けいれん)療法への書類のサインがあった。
 電気痙攣療法とは、文字通り頭に電極をつけて脳に刺激を与える治療である。これはオペ扱いで、全身麻酔をかけて行われる。腕に麻酔を打たれると、五秒ほどで意識がなくなり、同時に呼吸も停止する。麻酔は十分ほどで切れるのだが、その間に数秒間の通電が行われる。人為的に脳に癲癇(てんかん)発作を起こさせるのである。
 この治療は、六回から十二回をワンセットとし、週に二回のペースで行われる。途中で治療を中止してしまっては効果がない。任意入院では、本人が退院を申し出たら、医師はそれを受け入れざるを得ないという精神科特有の人権上の配慮をしなければならない。それで医療保護入院に切り替える必要があった。
 その日は、二つの書類にサインをし、それぞれに対して医師からのインフォームドコンセントがあった。ボクは疲労困憊(こんぱい)の態で重苦しい気分を引きずって、暗い寒空の下を歩いていたのである。十二日からはほぼ毎日、病院へ通い詰めていた。そんなとき、A氏に遇ったのである。
 ボクが病院を出入りしている間に河林氏が担ぎこまれ、ご家族や仲間が駆けつけ、突然の出来事に戸惑い、悲しみに暮れていたのだと思うと、いたたまれぬ思いが胸を締めつける。ただ、せめてもの救いは、河林氏の残してくれた作品を通して、ボクたちはいつでも河林氏に触れることができるということである。
 心よりご冥福をお祈りする次第である。合掌


                平成二十年三月 啓蟄  小 山 次 男


 追記

 この作品は、「文芸思潮」二十三号 ―追悼河林満― (平成二十年五月刊)に収録されたものに、平成二十二年十月に加筆したものです。