Coffee Break Essay


 『ベスト・エッセイ集 ―妻からの贈り物―』

 私の家の本棚に、白い背を向けてズラリと並んでいる文庫本の一群がある。日本エッセイスト・クラブ編集の『ベスト・エッセイ集』(文藝春秋刊)である。この七月、そこに特別な感慨をもって二十三冊目の文庫を加えた。〇五年版『ベスト・エッセイ集』である。

 この『ベスト・エッセイ集』は、前年に新聞・雑誌等に発表された短編エッセイを対象として、文藝春秋での二次選考で一五〇篇前後に荒選りされた作品を、日本エッセイスト・クラブによってさらに二次の選考を経た六十篇が収録される。このエッセイ集への応募は、自薦、他薦を問わないので、著者はプロ、アマ混在となっている。

 『ベスト・エッセイ集』のスタートは一九八三年であるから、今年で二十六冊のエッセイ集を発刊していることになる。近年は、単行本が出版されて三年後に文庫が発刊されるので、今年の文庫は、〇五年版ということになる。この〇五年版の末席に私のエッセイが収録されている。

 私が就職で東京に来たのは、昭和五十八年(一九八三)のことである。ぶらりと入った東京駅前の八重洲ブックセンターで、私は八三年版『ベスト・エッセイ集』を買い求めている。井伏鱒二、開高健、深沢七郎、金田一春彦など、今は亡き錚々たるメンバーに混じって素人のエッセイが散りばめられていた。その後、数年間このエッセイ集を買い求めたが、結局尻切れトンボに終わっていた。

 私もいつかこの本に自分の作品が載せられるといいな、と淡い夢を抱いていた。そのころは、私がものを書くなど想像もしていなかった。よしんば書いたとしても、新聞・雑誌などに掲載されなければならないという大きな難関があり、それは絶望的に高すぎるハードルであった。その後、私はサラリーマン生活に埋没し、夢は深い霧の彼方に消えていた。

 平成九年十二月、妻が突如として精神疾患に陥った。小学二年のひとり娘をかかえ、生活の全てが私の身にふりかかってきた。出張も転勤も残業すらできなくなった私は、飛んでいた鳥が突然片翼を失い、錐揉み状態で墜落するように子会社へ出向となった。

 妻の重篤なうつ症状に、このままでは共倒れになるという強い危惧を感じ、自分を守る手段として文章を書き始めた。だが、いざパソコンに向かうと、何をどう書けばいいのか見当もつかない。そこで読み始めたのが『ベスト・エッセイ集』である。中古本屋を歩き回って片っ端から『ベスト・エッセイ集』を集め回り、一気に読んだ。その勢いで、エッセイを書き始めたのである。年が変わり、私は四十歳になっていた。

 そのうち、書いたものが次第に手元に溜まってきた。私の書いたものが、はたして世間に通用するものなのか、という思いが頭を掠めていた。平成十四年、とある同人誌が募集していたエッセイ賞に応募し、最優秀賞をもらった。それを機に、私はその同人誌に所属し、年に二度、同人誌にエッセイを発表するようになる。いつの間にか『ベスト・エッセイ集』への応募条件を満していたのである。

 平成十六年、私は同人誌に発表したエッセイを初めて文藝春秋に応募した。それが〇五年版『ベスト・エッセイ集』に収録された「警視総監賞」である。淡い夢から、二十二年が経っていた。

 その翌年、再び「昆布干しの夏」が収録され、そして今年、〇八年版に「介錯人の末裔」が三度の収録を見た。

 妻が発病してこの十二月で十一年になる。妻は時折、人生に深い絶望を感じ、処方されている抗精神薬などを、一度に全部飲んでしまう。そのたびに病院へ運び込む。これまで十二回の入退院を繰り返している。当時小学二年だった娘は、今年、大学に進学した。

 出口の見えない長い闘病生活が、皮肉なことに私のエッセイの原動力となっている。押し潰(つぶ)されそうになる暗澹(あんたん)たる気持ちが、逆にユーモアの土壌になっている。

 私にとって『ベスト・エッセイ集』は、妻からの贈り物といったもので、今回は、十二回目の入院の病室からその贈り物をもらったことになる。

                 平成二十年八月 処暑  小 山 次 男