Coffee Break Essay



   『弁当』




ここ何年もウイークデーはほとんど毎日、コンビニ弁当を食べている。
おにぎり、弁当、おでん、麺類、いろんなものがあるのだが、すっかり飽きてしまった。
どれもこれもコンビニの味なのである。
でも便利(コンビニエンス)だから、ついつい惰性で食べている。

私は、昭和四十二(一九六七)年に小学校に入学した。
以来、中学を卒業するまでの九年間、弁当を持って学校へかよった。
厳密に言うなら、前年の幼稚園入園からである。
地元の高校へ行っていれば、さらに三年プラスされることになった。
とにかく十年間、母が作ってくれた弁当を持って学校へ行った。

給食はあった。牛乳一本である。それが九年間の給食である。

夏はそのまま飲み、冬は石炭ストーブの上で水を張った四角い大きなブリキの容器に牛乳ビンを入れて暖める。
暖めすぎてよくビンが割れた。
私より、十歳以上年上のひとでも脱脂粉乳に代表される給食の経験があるのに、私には、ない。

おりしも日本経済は、高度経済成長という上り坂を、
猛烈な勢いで登っている真っ最中であった。
が、北海道の辺境の地に、その恩恵が届くまでには至っていなかった。

おかげで、私は母の愛情を人並み以上に受けたことになる。

当時はまるっきり気にしていなかったが、
母の苦労は並大抵ではなかっただろうと今になって思う。
昔の主婦には当たり前のことだったのかも知れない。
今では、考えられないことである。

妹は、高校まで弁当を持って行ったし、父も弁当を持って会社に行った。
私が小学校五年のころから母は勤めだしたので、自分の弁当も作っていた。
実に、毎朝四人分である。

私は札幌の高校に進学したため、中学卒業とともに母の弁当から離れた。
五年後、妹の弁当がなくなった。
さらに、それから三年後の昭和五十八年、父が肝硬変で死ぬことで父の弁当が終了した。
父は病院食を嫌がり、しばらくは母に弁当を作らせ、密かに食べていた。

今年六十七になった母は、今も仕事をしている。
小さな土建屋の事務をひとりでやっている。
泊りで入札に出かけることもある。
田舎だから、定年はない。ありがたいことである。
だから、いまだに弁当を持参している。
いったい母は、何十年弁当を作り続けていることになるのだろうか。

私は今までに一度も、食事作りのことで母の不満や愚痴を聞いたことがない。
ただの一度も、である。

弁当のおかずは、卵焼き、たらこ、ソーセージや煮豆が常連であった。
メインには、塩ジャケ、スジコ、塩ウニなどが大量に入っていた。
シャケも普通のシャケではなく、紅ジャケがあたりまえで、
その他にオジカ、メジカ、トキなど呼ばれるシャケがあった。
現在の東京ではどう足掻(あが)いても口にできない、最高級品の種ばかりである。
それが普通のことであった。
海産物が豊富な田舎ならではである。

家が農家の秀則は、いつもおにぎりひとつであった。
両手で覆い隠すことができないほど巨大なおにぎりを、新聞に包んで持って来た。
恥ずかしそうに食べていたが、いたるところに具が隠れているようであった。

何か事情があったようだが、一度だけ大きな毛ガニを一パイだけ持ってきていた漁師の息子もいた。
今なら千歳空港で一万円は下らない毛ガニである。いろんなやつがいた。

今年、娘が中学に入って部活を始めた。
大会でもあると、土日に弁当を持って行く。
患っている妻に代わって私が作る。これが並大抵じゃない。

弁当など作ったこともないし何をどうしていいのか、皆目分からない。
妻から教わった通りにやるのだが、まるっきりダメなのである。
娘に可愛そうな思い、みじめな思い、寂しい思い、恥しい思いをさせたくないと必死である。
十月の日曜は、三週続けて五時半に起きて弁当を作った。正直言って、参った。

スーパーの冷凍食品売り場を見ると、弁当のおかずがワンサカ売っている。
とうとう手を出してしまった。
鶏の唐揚げ一個の場合はレンジで五十秒、二個だと一分、
という具合に細かに書いてある。
五分もあれば全てのおかずが出来てしまう。
シャケの切り身からひとくちステーキまで、何だってある。
電子レンジをチン・チンさせるだけで出来てしまうのだ。

はたして、こんなことでいいのだろうか――

体裁だけは整う。
味もさほど悪くはない。むしろ美味い。
でも何かが違う――。決定的に。

それは、弁当に込められた親の思いである。子には何もわからない。
でも、やがてわかる時が来る。
何十年たとうが忘れられない懐かしい味。
それが自分に注がれた愛情であった、と。
この齢になってやっと気づき、感謝を込めて心の中で頭を下げる。

だから、いくら心を込めてチンしてもダメなのである。

作りながら、これはもう弁当ではないと思った。
いくら自分が出来ないからといって、こんな悲しいものを食わせてはならない、と。

チン! という響きが胸に迫って、涙がこぼれた。


                   平成十四年十一月  小 山 次 男