Coffee Break Essay


 『バリューム』



(嚥下)

 ニュースキャスターの久米宏氏の話である。氏がまだ駆け出しのころ、敬老の日のインタビューで、下町のお爺さんを訪ねた。いろいろ話しを聞いた後、お決まりの質問をした。

「お爺さん、長生きの秘訣は何ですか」

 すると爺さんは、つまらないことをいちいち訊くな、とでもいいたげな目でギョロッと睨んで、

「それぁーおめぇ……死なねぇように気をつけることよ」

 といってプイッと横を向いた。これには、さすがの久米宏氏も脱帽したという。

 私も健康には気をつけさせられている。サラリーマンをやっていると、半ば強制的に定期健診を受けなければならない。

 健診は、年代別に相応のランクがある。二十代までは「若年層健診」、三十歳を過ぎると「成人病健診」、四十歳からは「人間ドック」と検査項目が重くなる。私も四十歳を過ぎてからは、一年間のお墨付きをもらいに行く、という感覚で健診に臨んでいる。

 二十代のころは、学校の集団健診の延長のようなものだったが、「成人病健診」になって、様相が一変した。検査項目の中に胃部レントゲン検査=Aいわゆるバリューム≠ェ加わったためである。

 私には食べ物で、嫌いなものが一切ない。最近まで比較的苦手なものとして、蒲鉾とマクドナルドのハンバーガーの中に入っているピクルスがダメだった。蒲鉾は消しゴムを食べているようで好きになれなかった。ピクルスは、輪ゴムというか、ゴムタイヤの味がしてダメだった。しかし、両方とも本物の美味しいものを食べて以来、苦にならなくなった。

 現在では、どんなものでも食べ得る自信がある。どう考えてもウンコの臭いとしか表現のしようのないクサヤも大好きだし(カレーライスがクサヤの臭いだったらダメかも知れない)、病気でただれた爺さんの隠しどころのような形状のホヤも大好物である。独特の臭みがあって敬遠する人の多いヒグマの肉や、血生臭く巨大なヒルのような色形のメフン(シャケの血合いを塩漬にしたもの)などには、至福を感じる。私が北海道の漁村で育ったことにもよる。

 好き嫌いの一切ない私の前に登場したのが、バリュームである。バリュームは造影剤なので、好き嫌いの次元で語る問題ではない。だが、口から入れて排泄することには変わりない。

 バリューム検査が、こんなにも大変なものだとは、想像もしていなかった。皆がやっているから、たしたことはないだろう、と高をくくっていたのだ。二十代の人を脅すわけではないが、私は毎年、並々ならぬ気合で、この検査に臨んでいる。家族がいるので死なないように気をつける、ただその一点で頑張っている。

 

「二十四番さーん」

 と呼ばれて入った部屋には、得体の知れない異様に大きな機械があった。レントゲン技師が近づいてきて、発泡剤の入った小さな容器をスーッと差し出し、

「一気に飲んでー」

 と唐突にいわれた。思い切って飲むと、もう一方の手にあったカップを素早く渡され、

「次にィ、水ー」

 そして間髪をいれずに渡されたのはティシュだった。

「口を拭いてー、ゲップを我慢」

 といいながらガラス張りの別室に消えた。

 心の準備をする余裕などまったくなかった。次からはマイク越しの声で、

「ハイ、スリッパを脱いで台の上に上がってー」

 いわれたとおりにする。

「左手に造影剤を持ってー、ハイ、一気に飲む」

 オレは年がら年中こんなことばかりやっているんだ、別のことを考えながらでもしゃべれるぞ、といわんばかりの口調である。

 目の前に、バリュームの入った容器がぶら下がっている。

 バリュウムは、三〇〇CCもあろうかというドロッとした白い液体で、さながら水に溶いた石膏である。果物の香りを付けてあるというが、私にはドロドロに溶かしたプラスチックの臭いとしか思えなかった。

 何度経験しても三分の一まで飲んだところで、限界が来る。込み上げてくるゲップとプラスチックの臭い、石膏の喉越しとの闘いが始まる。躊躇していると、

「ハイ、一気に飲んでー、ゲップを我慢してー、ドンドン飲んでー」

 語尾を伸ばした言葉でたたみかけてくる。あと一口分というところで容器を戻そうとすると、

「全部飲んでー」

 敵もさるもの、しっかり見ている。

 意識が遠のきそうな思いで、何とか飲み干す。万が一ゲップをしてしまったら、最初からやり直しになるので、無我夢中である。

 宇宙飛行士の訓練機器を思わせるような貼り付け台が動き出す。少しでも気を抜くと、ゲップが出てしまう。横向きにさせられたり、逆さまになったりしながら、レントゲンの音が、バシャッ、バシャッとする。まだか、まだ終わらないかと思いながらゲップに耐える。最後に待っているのは、寺の本堂の木魚を叩くバチのようなものが腹の前に伸びてきて、胃を押されるのだ。遠隔操作でやっているので、押しつぶされるのではないかという恐怖がある。

 やっと開放されて台から降りると、安堵感でヘナヘナになっている。レントゲン室から出るか出ないかのうちに、

「二十五番さーん」

 という独特な口調のアナウンスが響く。

 呼ばれた二十五番氏が、バリュームで口の周りを白くした私に一瞥をくれながら、引きつった面持ちで鉄扉の向こうに消えてゆく。

 前夜から何も食べていない胃に、バリュウムが重くのしかかる。不快な満腹感である。どう考えても人間が口にするものではないと思いながら、渡された下剤を飲む。それが次なる試練の始まりとなる。

 

(排出)

 下剤を飲んでも、なかなかバリュームが出なくて苦労するという話しを聞くが、私の場合幸いというか、一時間もたたずに排泄が始まる。これも極めて不快な排泄感である。ビールでたとえるなら切れが悪い≠ニいうやつだ。だが、飲むときのことを思えば、ヘでもない。

 飲んでいるときは溶けたプラスチックの臭いであったが、出るころには石膏の臭いに変わっている。見た目も石膏である。初めのころは、白いクソに興味津々であった。だが、この白いクソが難物で、トイレの水をよく流しながらしないと、便所を詰まらせる原因となる。現に私は、自宅の便所を二度も詰まらせてしまった。

 最初のときの翌朝、妻から会社に電話があった。

「ねえ、トイレが変なのよ。流しても、どこか奥の方で詰まっている感じで、白い液体が逆流してくるのよ。石膏のような臭いがするんだけど……」

 初日で全部出し切れていなかったのだ。二十代の妻は、バリュームの経験がなかったので、それが何かわらからなかった。

 

 排出の要領を熟知し、安心し切っていたある時、事件が起こった。

 検査終了後、いつも近くの喫茶店で軽食を摂ることにしている。食後はコーヒーで寛ぎながら、そのトキを待つ。慣れてくると、第一波がツーンと押し寄せて来ても慌てることなく、第五波くらいまで堪えてトイレに行くようにしていた。一気に出す作戦である。

 私が行く喫茶店は、都内の某テレビ局内にあり、いかにも業界関係という独特な成りをした人々が、コーヒーを飲みながら打合せをしている場所である。第二波が来たところで出口を引き締め、波が通り過ぎるのを静かに待っていた。ところが、もういいだろうと力を抜いた次の瞬間、あろうことか、出てしまった。

 油断であった。急いで会計を済ませて出ようとするが、急ぎ足で歩けない。ソロリソロリと歩いているうちに、レジの前で先を越されてしまった。そのうちに第三波が来る。それに堪えながら待つ辛さ。先に出たバリュームが太腿を伝わるのがわかった。周りに硫黄の臭いが立ち込めてきた。マズイことになってきた、と思った。流れるバリュームがふくらはぎに達したところで、やっと会計を終え、トイレに向かった。

 予想外の量だった。ズボンを脱いでみると後ろが真白である。完全に誰かに見られたと思った。トイレットペーパーで拭いてみたが、紙が破れてヒジキのように付着し、まるで埒があかない。やむなくパンツも靴下も脱いで、トイレの水を流しながら、便器の中でパンツを手揉み洗いした。汚いもヘッタクレも言っていられない状況だった。

 そのパンツを絞って、それでズボンを拭いた。それしか方法がなかった。その間にも第四波が襲ってくる。二十分もトイレにいただろうか。やっと始末を終えたが、このままでは会社に行けない。パンツを汚物入れに放棄し、ノーパンでトイレを出た。

 まさかスーツ姿のサラリーマンがノーパンで電車に乗っているとは、誰が想像しよう。それだけが救いだった。濡れたズボンが気になった。下半身がひどくスースーする。なんとも居心地の悪いものだった。

 バリュームをタレた経験のあるひとは、意外に多いかも知れない。だが、下半身裸のスーツ姿で、便器の中でパンツを手揉み洗いしたことのある人は、そうざらにはいまい。死なないように気をつけるということは、並大抵のことではないな、とパンツを洗いながら思った。様々な努力を払って人はみな、死ぬまで健康でありたいと願うのである。

 ふと脳裏をよぎった。久米氏がインタビューした職人の爺さん、はたしてバリュームを飲んだ経験があるのか、と。

「バカヤロー、そんなもん飲んでたら、とうに死んでらぁ」

 といいそうな気がして怖かった。

 三十八歳、せつない夏の思い出である。

 

                     平成十三年九月  小 山 次 男

 追記

 平成十八年十一月 加筆