Coffee Break Essay



  『晩秋の情景』




十一月も半ばを過ぎると、季節は冬へと一気に傾斜して行く。
季節を追い立てるのは木枯らしである。

山茶花の純白がひときわ清楚に、高貴な輝きを放っている。
心が洗われるほどに白く、寒い。
一方、季節の移り変わりとは無縁といわんばかりに、
濃緑で大きな肉厚の葉をもつ枇杷(ビワ)。
鬱蒼とした暗い印象が常につき纏(まと)う。その葉陰で、
小さな花が頬を寄せ合うように静かに咲き始める。
温か味を帯びた乳白色の小花の集まりである。
樹下に花弁の散らばりを見て、
視線を上げて初めて開花に気づくほど控え目な開花である。
枇杷は、四季の最後に咲く花といわれている。
一昨年は、この花の上に雪が積もった。
この花の美しさに気づいたのは、ごく最近のことである。

落ち葉を踏みしめて会社へ向かう。
赤、橙、朱、黄、薄緑、茶、焦げ茶、さまざまな色に染められた桜の葉が、
寒々とした黒いアスファルトに散りばめられている。
どれ一枚とて同じものがない。
虫食い跡もひとつのアクセントとなり、匂うほどの鮮やかな光彩を放っている。
季節が凝縮されたかのような色彩のグラデーションを楽しみながら、
足早に駅へ向かう。

気ぜわしい朝のひと時、人目を気にしながらも拾わずにはいられない。
そんなことをしているサラリーマンなど、どこにもいない。
気がつけば、三枚も四枚も気に入った葉っぱを手にしている。

書棚にある古い本などを捲(めく)っていると、時折、葉っぱがパラリと落ちてくる。
拾ったころの鮮やかな色彩はすでに失せ、どれも茶色に変色している。
読み終わった本の日付を見ると、いずれも晩秋の街角や散歩道で手にとったものである。

いつも何かしかの本を持って歩いているので、
この時季に読んだ本には、さまざまな木の葉が挟まれることになる。
通勤途上で拾い上げた桜。
道端の塀に這っている小さな蔦(つた)。
街路樹の躑躅(つつじ)や銀杏(いちょう)。
三島由紀夫の『潮騒』からは、二十年も前の金閣寺の楓(かえで)が落ちてきた。
ヘッセ詩集には、札幌で過ごした高校時代の窓辺にあったポプラの老木の葉が挟まっていた。

すでに処分してしまった本の中にも、
そんな季節のメッセージが入っていたに違いない。
まだ、どこかの古本屋の片隅に、ひっそりと並んでいるかも知れない。
セピア色に変色し、少しでも強く触ってしまうと砕けてしまいそうな脆(もろ)い葉。
汚らしいとゴミ箱に捨てられても仕方がないものである。

なかには、耳を澄ましてメッセージを聴き取ろうとしてくれた物好きなひともいただろうか。
拾った場所を直接その葉に書き込んでおいたものもあった。
まさに「葉書」である。

当時はこんなものを読んでいたんだ、と懐かしく思うこともある。
挟んだ葉のおかげで、おぼろな情景が呼び覚まされる。

修学旅行で歩いた晩秋の京の風情が忘れ難く、わざわざ大学を京都に選んだ。
いくら歩いても飽き足らなかった二十歳前後の私の季節が、あった。

すっかり葉を落とした柿の木に西日があたり、熟し切った実が真っ赤に点灯する。
それはあまりにも鮮烈な朱の記憶として、深く私の中に刻まれている。

嵐山や桂方面の山の端にかかった落日の最後の煌(きらめ)きが、
東山の紅葉を燃え上がらせる。そのわずか数分の光景を、息をひそめて待っていた。残照が演じる光のハレーションに呼吸すら忘れる思いであった。
そして、その後に訪れる静寂な青の時間が好きであった。
生が燃え尽きる瞬間にも似た光景に、仏教的な刹那を感じていたのかも知れない。

すでに閉門され、誰もいなくなった清水の舞台に腰を下ろし、
暗くなるまで佇んでいた青年の目には、何が映っていたのだろう。

嫌が応にも待ち受けている就職。会社勤めなど想像に難い。
どこで何をしているのだろう。
北海道に戻っているのかも知れないし、近場の大阪に安住している可能性もある。
サラリーマンの通過点とてして東京にいるかもしれない。
一体、自分はどんな仕事がしたいのだろう。
数年先の自分が描き切れないもどかしさ。
たぶん二十代の間に訪れるであろう結婚、子育て。そんなのは嫌だ。
もう少し学生でいたい。
自分はまだ何も確立していないじゃないか。
大学という猶予された防護壁の中に、もうしばらく自分を浸していたかった。

将来への漠然とした不安と、あるのかないのか分からないほどのかすかな夢。
そんなものを、刻々と色を変える空のスクリーンに投影していたのかもしれない。

本に挟まれた葉は変色しても、当時の情景は今もなお私の中で、鮮やかに色づいている。


                     平成十五年二月  小 山 次 男