Coffee Break Essay




 アルバイトの夏


 私のふるさとは北海道の太平洋岸、えりも岬にほど近い様似(さまに)という小さな漁師町である。この一帯は、日高昆布とサラブレッドの一大生産地となっている。

 昭和五十年、私は高校進学とともにふるさとを離れた。札幌の高校で寮生活を始めてすぐに、海のない環境に大きな戸惑いを覚えた。それまで意識することもなく目にしていた海が、突然なくなったためである。磯の香り、潮騒のない生活に、窒息しそうなほどの閉塞感を覚えたのだ。

 都会の学校で受験勉強に浸る生活をしながら、こんなことではいけないという思いを抱くようになっていた。モヤシになってしまうと思ったのだ。夏休みで帰省すると昆布干しのアルバイトに精を出すようになった。時季になると、敷きつめられた昆布で浜一面、見渡す限り真っ黒になる。町中に磯の香りが充満する。

 昆布採りの作業は、日の出とともに始まり、午前中には終わる。そしてその日のうちに昆布を干し切ってしまわなければならない。そのころの私は、朝四時から始まるこの労働を、一人前の男になるための通過点、試練だと考えていた。それまで私は、昆布干しをしたことがなかった。乗り越えたい壁だと思っていた。

 昆布旗が上がるとともに、満を持した磯舟が我先にと漁場を目指す。数百メートルの沖合に舟を泊め、手ぬぐいでねじり鉢巻きをした漁師のオヤジが、海面に身を乗り出して昆布を採る。やがて昆布を満載した磯舟が、浜に向かって一直線に戻ってくる。

「来たよ!」

 という声と共に、待機していた家族と手伝いの者たちが一斉に走り寄る。胸まで海に浸かりながら舟を迎えに行き、波打ち際へと誘導する。横付けされたリヤカーに昆布が移される。肉厚で黒光りした昆布は、間違いなく最上級の一等昆布だ。全身潮まみれになりながら、大急ぎで昆布をリヤカーに移し替え、再び舟を送り出す。昆布旗が降ろされるまでの間、この作業が繰り返される。流れ寄ってきた昆布はいつ採ってもいいのだが、舟での漁は旗が揚がっている間に限られる。乱獲を防ぐためのルールなのだ。

 大学時代、三十日間漁師の昆布小屋に寝泊りし、本格的に働いたことがあった。夕食を終え、夜の七時ともなるともう眠くなる。日没の時間なのだが、前浜の防波堤に腰掛けて夕陽に染まる海を飽かず眺めていた。夕焼けが満天の星空に変わっていく、自分はこれからどうなっていくのだろう、移り行く空を見上げながら、漠然とした将来の不安を思っていた。私にとって昆布干しは、アルバイトを超えた労働で、まさに漁師家族と一体となった生活であった。

 翌年の夏からは、一転、土方の仕事に従事した。昆布干しをやり切った私は、別の世界を覗いてみたくなっていた。最初の年は山奥の砂防ダムの建設、翌年には河川の護岸工事を行った。社会の底辺で働く、そんな土方の仕事を経験してみたかった。

 田舎の土方作業は、都会での肉体労働とは様相を異にしていた。

 午前六時半にワゴン車が迎えに来る。私だけがとびきりの若者で、大方は四十代、五十代の男女が主流だった。そんな七、八人の人夫を乗せた車がひたすら山奥を目指す。目的地は、日高山脈の山懐、ペンケだったかパンケかは定かではないが、そんなアイヌ語の地名の小さな沢だった。そこで砂防ダムの建設を行った。

 助手席に座らされた私は、銃を抱えていた。ライフル銃である。銃床を下にして太ももに挟み、銃身を肩に当てて抱きかかえるようにして持っていた。そのずっしりとした重みと、銃身の冷たさに、得もいえぬ緊張感を覚えた。弾が装填され、いつでも使用できる状態になっていたが、安全装置はしっかりとかけられていた。ライフルは、ヒグマの出没に備えるものだった。銃のほかに爆竹も用意されていた。車のトランクには、岩床を破壊するためのダイナマイトもあった。フル装備である。人間が入り込んではいけない領域での作業ゆえ、畢竟(ひっきょう)、命がけとなる。

 山を下る沢の両側の岩盤をダイナマイトで砕き、大掛かりな木枠をこしらえ、そこにコンクリートを流し込む。そんな作業に一ヵ月ほど従事した。実際は、途中から建設に加わって、完成を見ずに終わってしまったのだが、ほぼ一つのダムを造るところまでたずさわることができた。

 土方の仕事は、整理に始まり整理に終わる。乱雑そうに置かれている資材は、順番どおりにキッチリと並べられ、次の出番に備えられていた。だが、仕事自体はおおらかで、午後からいなくなるジイさんもいた。釣竿を持参しており、親方がいなくなると渓流釣りをしに行くのだ。ほかの人夫たちも、あのジイさんは仕方ない、という暗黙の了解があった。それは親方も知っていた。

 昼になると、作業場の近くに建てた小屋で昼食を摂る。みんなアルマイト製のドカ弁を持ってきており、そこには大量のスジコだったり、塩ウニや肉厚のシャケ、タラコといった海産物がギッシリと詰まっていた。昼食後は雑魚寝するのだが、ライフルは常に手の届く傍らにあった。

 休憩小屋にはトイレなどなく、茂みの中で用をたす。女性たちも慣れたものだった。用をたしに入った茂みの奥で丸い尻に出くわし、何度、ドキリとしたことか。クマに遭うのも怖いが、不意に遭遇する白い尻も、ある意味恐怖だった。年配の女性とはいえ、ズキーンとした衝撃が心臓を突き刺した。

 私は十五歳から二十二歳の夏の間に、密度の濃いアルバイトを体験してきた。受験勉強や就職活動でアルバイトができない夏もあった。このアルバイトを通して、一人前の男になれたかというと、とてもそうは思えない。だが、この時に流した汗は、四十年近くを経た今もなお、衰えることのない光度で輝いている。


                              平成三十年十月  小 山 次 男