Coffee Break Essay




 
「ありのままのハゲ」


 こんなことになるとは考えてもいなかった、といえばウソになる。

 私は二十代の後半にはすでに「うすい・けん」とささやかれ、薄毛の兆候が現れていた。「うすい・けん」とは、昨年亡くなった俳優「宇津井健」をもじったものである。

 自分の顔は毎日鏡で見ている。だが、改めて写真を見たり、エレベーターなどの防犯モニターに映し出される自分を見て、ギョッとすることがある。オレってこんななの、という思いである。アラウンド・ビュー・モニターさながらに頭上から撮られた映像を見ると、毎日見ている自分とは明らかに違う自分がそこにいる。不思議なものだ。

 歳を重ねるうちに内面の輝きが自然と滲み出し、頭髪もロマンス・グレー(この言葉自体、もはや死語か)の素敵なオジさまになる予定だった。だが、現実は非情だ。そんな思いとは真逆の結果になっている。人生とは、ままならぬものである。

 自分の後頭部を鏡で見る機会は、床屋に行ったときしかない。手鏡で仕上げ状態を確認させられると、その鏡に映る自分の頭に愕然とする。お店の人は私にメガネをかけて、しっかりと確認させようとするが、そのつど「だいじょうぶです」とその動作を遮っている。

「ここのところをもう少しこなん感じで……」

 などと注文をつけるほどの毛がないのだ。だからメガネをはずしたぼんやりとした画像で十分なのである。本当は見る必要もないのだが、形式的に確認作業に協力し、「だいじょうぶです」という代わりに小さくうなずく。

 父方にも母方にも誰一人としてハゲはいない。みな年老いてもこれ見よがしに剛毛を生やしている。

「どうしてそういう頭になったわけ」

 と妹から非難めいた口調で言われるが、そういわれても困るのだ。

 私の頭は、いわゆるツルッパゲではない。便座のような形で額から頭頂部にかけて、髪の毛が薄くなっている。今、五十五歳なので、あと十年もしたらチョンマゲのない侍のような不毛地帯になるのだろう。

 髪の毛がなくて困ることがいくつかある。その一つは、ラーメンやカレーなどを食べたとき、汗がストレートに流れ落ちてくることだ。乱伐された山が保水力を失い、ちょっとした雨で鉄砲水が発生する原理と同じである。汗はかろうじて眉毛で受け止められるが、そんなものは小さな沢の砂防ダムと同じで、気休めに過ぎない。すぐに決壊する。

 なにより髪がなくて嫌なのは、実際の年齢よりも老けて見られることだ。毛があるのとないのでは、見た目に雲泥の差が生じる。どんなに若作りをしても、毛がなければおしまいだ。その証拠に、しばしば母と夫婦に間違われる。母はどこから見ても実年齢相応の八十歳である。

「ご主人もいかがですか」

 足の弱った母の車椅子を押しながら、スーパーの試食コーナーを通りかかると決まって声をかけられる。「このクソババア」と思いながら、六十代くらいの女性から、爪楊枝に刺さったソーセージを受け取る。頭にくることを「怒髪天を衝く」というが、肝心の髪がなければ、毛を逆立てて怒ることもできない。耳の遠い母は、そんな場面にも気づかず、ただニコニコしているだけだ。

 かといって、カツラをかぶってまで誤魔化そういう気は毛頭ない。そんなものをかぶって、何が楽しい。機あらば、女性の気を引こうという魂胆でもあるのか。それならば、正々堂々と真っ向勝負に出るべきだ。「オレは見てのとおりのハゲだ。どうだ、マイッタか!」という気概で。

 どんなに優れたヅラをつけても、絶対にバレる。「生え際が怪しい」という疑義を生じさせないズラなど見たことがない。増毛技術の進化は目覚ましいようだが、限度がある。

 伸ばした髪の毛をこめかみあたりから持ってきて、整髪料で頭蓋骨に貼りつけているオジサンをときおり目にする。あれでハゲを隠しているつもりなのだろう。その健気(けなげ)な努力は認める。だが、頑張れば頑張るほど滑稽で仕方がない。男なら正々堂々とハゲろ、と言いたくなる。そのむかし、我が敬愛する作家の佐藤愛子先生は、バーコード頭を「食べ残しのザルそば」と表現していた。まさに正鵠を射た表現である。

 不意の夕立や強いビル風に遭遇し、慌て毛繕(けづくろ)いをしている無残な落ち武者を目にすることがある。誰もが見てはいけないものを見てしまったように、チラリと一瞥(いちべつ)を投げてその場から遠ざかる。

 男のハゲも女性のペチャパイも、それを自分の「個性」として正々堂々と生きればいいのだ。別に恥ずかしいことではない。綿のいっぱい詰まったブラジャーをつけて、胸を大きく見せるのもいい。だが、ハゲを誤魔化す男と貧乳の女が親密な関係になり、次の段階に踏み込むとき、すべてはバレるのだ。

 もちろん、抗がん剤などの影響で頭髪が抜けたとか、乳がんの手術で乳房を切除せざるを得なかった人もいる。私がここで言いたいのは、そういうケースではない。もって生まれた個性を、詐欺まがいに誤魔化そうとする魂胆が、気に食わないのだ。

 あるべきものはきちんとあった方が、いいには違いない。だが、ないものはないのだ。きっちりと開き直って正々堂々としている姿は、凛として潔(いさぎよ)い。笑われたっていいじゃないか。ありのままで生きることができたなら、どんなにか楽なことか。

                    平成二十七年九月  小 山 次 男