Coffee Break Essay



  『「愛子先生と母」―顛末記』




「私は佐藤愛子の大ファンです」という人を、私はどこか胡散臭く思う。
相手がアイドルまがいならまだしも、この作家に対して「ファン」などという見当違いな言い方をする、その安易な性根が許せないのだ。

私は、この作家の生きざまが好きである。ひどく共感を覚えるのだ。

「人は負けると知りつつも戦わねばならぬ時がある」というバイロンの言葉を、
作家は父佐藤紅緑氏から受け継いだ大切な言葉とし、作家の信条としている。

どんな困難にも決して逃げることなく、その先には必ずや道が開けると信じて、真正直にがむしゃらに生きてきた作家の、真摯な姿勢が好きなのである。
ただ、正直に生きるがゆえに、バカを見る。
それでも作家は迎合せず妥協もしないで、みごとに人生の道を切り開いてきた人である。

しかもこの作家、どんな苦難に遭遇しても、決して泣きごとを言わない。これが、凄い。
そして、悲しいこと、辛いことの全てをユーモアで包み込む。
だから、腹を抱えて笑いながら涙が出る。せつないほど悲しいのだ。
作家の文章のその行間から溢れ出す薀蓄には、私などはただただ唸るばかりで、これほどの人を他に知らない。

怒鳴りまくり、怒り狂う(当時はそのようであったらしい)作家の、根底に流れる暖かな眼差しに心打たれるのだ。
だから私はこの作家を敬愛し、こよなく尊敬しているわけである。

その佐藤愛子先生に、私はこれまで二度、手紙を出した経緯がある。
一通は「礼状」で、もう一通は「詫び状」である。

礼状は、昨年(平成十五年)の春、私が同人誌「随筆春秋」の懸賞エッセイに応募し、賞を頂いたことに拠る。
佐藤先生はそのコンテストの選考委員をされており、身に余る選評まで頂いたので、伏してお礼の手紙を書いたのである。

実は、私、それまで先生のことを、まるで知らなかったのだ。
この賞を機に、少しは先生のものを読んでおかなければ、と本屋の本棚からデタラメに三冊抜き取ってそれを読んだら、抜けられなくなってしまった。
以来この一年半、毎週末、十七件の中古本屋を自転車で順繰りに訪ね歩き、現在までに百冊に近い先生の著書をみつけ出し、大切に読んできたのである。

世の中には、佐藤愛子ファンというのが五万といる。
だが、その人たちと私の大きな違いは、私が昭和時代のファンではなく、平成十五年にして初めて熱烈な愛読者になったということにある。
今ごろ郷ひろみのファンになったようなものだろう、と言う方もいるかも知れないが、そうではない。
三十年も前に書かれた先生のエッセイは、今、このような時代だからこそ読まれるべきものだ、と私は思っている。

ここまで書いてくると、いっそ改題して『佐藤愛子論』に進路変更したくなってきているのだが、それではいつまでたっても本論に入れないので、ここで話頭を顛末記に戻す。

私は、四年前から趣味でエッセイを書いている。
応募したのは、この懸賞エッセイが初めてのことだった。
だから、舞い上がるばかりに嬉しいことだったのである。
この賞で、またひとつエッセイが書ける! と調子に乗った私は、さっそくその受賞前後のことを文章にした。それが『愛子先生と母』である。

しかも文章を面白おかしくするためには、多少言動が大袈裟になっても致し方ない、
これこそが「文学的誇張」、という傲慢な衒いがあったのも事実である。
これを書いた(平成十五年五月)ころには、佐藤先生の著書もかなり読み進んでおり、すっかり先生のことを理解していたつもりでいた。
一度もお会いしたこともない先生をひどく身近に感じ、親近感すら抱いていたのである。
私の中で「佐藤愛子」だった作家が、「佐藤先生」となり、ついには「愛子先生」に変化していた。
この「先生」という呼称、先生自身好まないのだが、あえて敬意を込めてそう呼ばなければならないものが、私の中に出来上がっていたのである。

そういうわけで、私は『愛子先生と母』の中で、勝手をやってしまったのである。
そこで留めておけば、何も問題はなかった。
だが、すっかり調子づいた私は、その文章をネット上に流したのである。
つまり個人レベルの娯楽から、いきなり不特定多数の目に晒してしまったわけである。
それが意味する事の重大さに、私は気づいていなかったのである。

そしてこのたび、思わぬ波乱が巻き起こった。

私は受賞の知らせを受けた平成十四年の暮れから、現在に至る(受賞を機に私は同人会員となっている)まで、この同人誌事務局のAさんと時折メールの遣り取りをし、エッセイから脚本まで、様々なご教示を頂いている。

Aさんは原稿の受け渡しなどで、年に数回、佐藤先生の許を訪ねている。
それでこの五月、いつものように先生を訪ねたAさんは、先生から「私、そんなに気難しくないですよ」と言われ、面食らったのである。
私の文章が公開されていることを、Aさんは知らなかった。

つまり、インターネットで『愛子先生と母』を読んだ人が佐藤先生に、随筆春秋事務局の人が「佐藤愛子さんは気難しい人だから」と言っている。
「随筆春秋の事務局に抗議した方がいいですよ」とのご注進に及んだらしい。

私は文章の中で、Aさんがほんの僅かに言及していた佐藤先生のことや、私とAさんの遣り取りを、ピカソの「ゲルニカ」のごとくデフォルメしていたのである。

例えば次のような表現がそれにあたる。

「愛子先生は随筆春秋の選考委員のひとりである。

『いい作品がなかったら、賞はなしにするわよッ! 無理に選ぶ必要なんかないんだから。いいわねッ!』

選考を前にバシッと一発張り手があったらしい。結果は、『これに決まりよ』と笑顔で原稿を振って見せたという」

Aさん曰く、佐藤先生はこのような激しい物言いをなさる方ではない、と。
そう言われて初めて、私はこの文章が、自分の幻想であることに気づいたのである。さらに、
「こういう場合、礼状を出すのが礼儀だろうと考え、早速、事務局の方に先生の住所を訊ねた。

『――気難しい方なので、私たちにはわからない先生特有の《常識論》もあろうかと……』という返信。
結局、事務局宛に礼状を送り、先生宅に届けてもらうことになった」

と、先生を「気難しい人」だとAさんが言ったように表現してしまったわけである。
このときAさんは、誤解のないよう慎重に言葉を選んで、私に語ってくれていたのを記憶している。
メールでの遣り取りであったが、そんな印象を強く感じていながら、私は無情にもAさんを裏切ってしまったのだ。

私のやったことは、Aさんの人格を否定しかねない捏造である。
同時に、佐藤先生の名誉をもいたく毀損してしまう結果となってしまった。重罪である。

佐藤先生からその経緯を聞かされたAさんは、その日のうちに私にメールをくれた。
そこにあった「犯人は私です、と(佐藤先生に)謝っておきました」という言葉を目にし、私は現実に引き戻されたのである。
そして、ホウレン草のお浸しのように、コテコテに萎れてしまったのだ。

私は、その日のうちに、速達でAさんに詫び状を送り、その中に佐藤先生への手紙を託したのである。

そもそもこの『愛子先生と母』は、Aさんに読んでもらいたくて書いたものであった。
それが、とんでもないことになってしまった。
この場を借りてお二人に深くお詫び申し上げるとともに、読者の皆さんに誤解を生むような文章を披瀝してしまったことを、お許し頂きたい。

不謹慎な話だが、この不始末をAさんから知らされたとき、「これでまた書ける。今度はもっと上手く書こう」、という考えが私の脳裏を過ぎったことも、正直な話である。

それと、私の母の方だが、今では鎮静剤を打たれたイノシシのようにパッタリとおとなしくなってしまったことを、ご報告しておく。

最後に、随筆春秋事務局のAさんの弁明をご紹介する。

「ネットで読んだ人が、佐藤先生に『抗議したほうがいいですよ』と注進したのは、私が想像しますに、事務局(私)と近藤さんのやりとりの部分、そして、先生のセリフの
『良い作品がなかったら、賞はなしにするわよッ。無理に選ぶ必要はないんだから。いいわねッ』

 と言う部分ではないでしょうか。佐藤先生は決して、そんな激しい物言いはなさらない方ですが。

 随筆春秋の事務局というところは、佐藤愛子先生の威光を嵩にきて、ずいぶん、居丈高な態度をとる所だなと。水戸黄門流に言えば、

『恐れ多くも佐藤愛子先生なるぞ。手紙の宛名に『殿』とは何たる無礼千万。ただちに書き直せい』

 と、言ったように受け取られたのではないでしょうか。私たちは、面白いエッセーだと笑っていたのですが。

 随筆春秋の事務局は、そんなに偉くないですよ。「事務局」などと大袈裟なネーミングをしてしまいましたので、政治結社か高層ビルの中の豪勢なオフィスを連想されるかもしれませんが、実際は、国分寺駅の近くの、窓も開かないオンボロアパートの一間で、拾ってきた机と、電話が一台。何の能力もない半ボケの主婦が三人、あっちおろおろ、こっちおろおろしながらやっているのです。もちろん、同人誌ですから、完全無報酬のボランティアで。ただただ、佐藤愛子先生から、直接作品の指導をしていただけることだけを御褒美だと思って。

 近藤さんの「愛子先生と母」をお読みになった方、こんな私たちですから、どうぞ、お手柔らかにお願いします」


                    平成十六年六月  小 山 次 男