Coffee Break Essay



 『愛の連立方程式』




 世の中に男と女がいる限り、色恋沙汰は尽きない。飽きもせず同じことの繰り返しが延々と行われている。だから人生は面白いのかも知れない。

 男女の関係では、経済力もさることながら、「やさしさ」が最重要ポイントとなる。

「何であの野郎にあんないい女が……」。友達の結婚式で、そんな経験をしたひとは少なからずいる。他人のものはよく見える。「だって、彼ってとってもやさしいの」だと。バカヤローッ!

 唐突だが、結婚って何だろうか。

 生物学的には、繁殖期をむかえ、雌雄がつがいになって巣を作り、卵を産み育て巣立たせる。成熟期の固体が、次の固体を生み出す行為である。

 ただ、つがいになるためには、ドラマチックな競争がある。戦いに勝った強い雄のみが、次世代を残す権利がある。その選択権は、雌が握る。昆虫では、交尾の直後に、雌に食われてしまう雄もいる。「あー、気持ちよかった」と安心してくつろいだ瞬間、ムシャムシャと頭から食われてしまうのだ。たまったものではない。

 人間の場合、恋は突然やってくる。三丁目の角を曲がったら、バッタリ恋に出くわしたとはいかないまでも「アッ! いいなぁー」、と思うひとに出くわす。胸がキューンと鳴る。その場はそれっきりになってしまうが、ある日、偶然にその女性に再会する。あのひとだ! そう思った瞬間、胸の奥に格納していた愛の補助エンジンに灯がともる。これも運命だ、と過大評価する。

 そっと近づくが、話しかける理由がない。不用意に話しかけると、変なひとと思われるのは必定。逡巡している間にいなくなってしまう。

 本当は、チャンスなんていくらでもあるんだ。何せ人類の半分は、女なのだから。ただ、チャンスが目の前で逃げて行く。ど真ん中のストライクボールをみすみす見逃した時ほど、悔しいことはない。めったにそういう球は飛んで来ないのだから。そういうチャンスを逃さず打つヤツがいるから、頭にくる。

 何かのなりゆきで顔見知りになり、何度か会っているうちに、お互いの間にやさしい感情が流れ出す。次第に言葉のやりとりだけでは物足りなくなり、より身近に相手を感じ、もっと強いやさしさで結ばれたくなる。メインエンジンが密かに点火し、友達以上の関係、つまり特別な扉が開かれ、愛の領域に入り込むわけだ。

 それはとろけるような甘い日々である。人生が楽しくて仕方ない。多少嫌なことがあっても、どんどん後ろに飛んで行く。汲めど尽きせぬパワーが漲り溢れる。でも、そんな期間は、そう長くは続かない。そのうちに、こんな事ばかりしていていいのだろうか、と思う時期が忍び寄ってくる。

 ある日突然、

「本当の私を知らないのよ。素顔の私は、違うの。もっとドロドロしていて意地悪で、あなたが思っているような女じゃない(泣)」

 といって背を向ける。

 今までうまくいっていたと思っていたのに、唐突に切り出され、男はアタフタする。「オイオイ、何だよ、何いい出すんだよ」困惑してあたふたとする。思いついたように、ちょっと出かけてくるとか何とかいって、汗を拭きながら戻ってきたその両手に、コンビニのソフトクリームを持っていたりする。健気(けなげ)だよね、男って。それって、煮え切らない男に対する女性の側からの最終搭乗案内なんだよ。女性は、次のステップへ誘(いざな)ってくれるのを、「このひと、何やってんの」という気持ちで待っているのだ。

 「今度、温泉にでも行こうか」新局面を求めて、二人の関係をより深めるための旅が始まる。ヴァーチャル夫婦体験を通して、二人の間に横たわる未知数、xとyの解を求めるために。

 だが、この未知数は、絶対に解けない。触れちゃいけないお互いの秘めた部分。追及し過ぎると泥沼化する。そっとしておくべきものなのだ。

 曲折を経、相手が自分にとって無二の存在であると確信できた瞬間、それまでもう一方のポケットに密かに隠し持っていた愛のポートフォーリオやヘッジファンドを、コンビニのゴミ箱にレシートを放り込むように捨て去るのだ。それは「結婚」への求心力の増大、愛の臨界点を意味する。そして、めでたくゴール・インとなるわけである。

「いやー、ゴールだと思ってテープを切ったらさ、そうじゃなかったんだ。その先があったんだ。見えないほど遠い先が……」

 ということになる。結婚は、大きなチェックポイント、通過点でしかない。「ガッハッハー、ザマー見ろ!」という得体の知れない高笑いが聞こえてくる。

 血のつながった家族というが、夫婦はもともとあかの他人である。その他人同士が二人は一つとか、一心同体などという妄想を抱いて共同生活を始める。

 甘い新婚生活というが、ふり返れば二人で幻覚を見ていたのである。やがて覚醒する。他人同士なので、当然、拒絶反応が起こる。結婚する前に、相当ゴタゴタやったつもりでも、結婚してみなきゃ分からないことが、山ほどある。再びひそんでいたxとyが見え隠れしだす。

 一昔前の女性なら、しおらしく控え目で、忍耐強く夫に従ってきた。それが女性の本分、美徳とされる時代があった。そういう両親を見て育った男には、悲劇が待ち構えている。妻とは、そういうしおらしいものだと摺り込まれているから。相手の女性にも母親のような古い型式の女性像を無意識に求めてしまう。やがて両者に互換性がないことに気づくのである。

 ガリガリぶつかりあい、お互いに許容し、理解し、妥協点を求める闘争が始まる。決して夫婦が融合するのではなく、違いの確認作業を行うのである。やがて二人のバランスが釣り合う均衡点を見つけ出し、不文律の不可侵条約を結ぶのだ。

 夫婦というものは、そうやって磨かれて行く。お互いの未知数xとyを真綿に包んで、愛の連立方程式を温存したまま、長年続いた家庭闘争が、和解に持ち込まれてゆくのである。

 ただし、これはひとつのシナリオに過ぎない。男と女のストーリーは、なかなか筋書きどおりには行かないのが常である。

                     平成十四年九月  小 山 次 男

 追記

 平成十九年六月 加筆