Coffee Break Essay

 
『アドリア海の余韻』

 会社帰り、いつものように池袋から電車に乗った。ひとつだけ空いている席を見つけ座ろうとしたとき、窓と座席の境目に、二センチほどの大きなクロマルハナバチが蹲(うずくま)っているのを見つけた。両隣には若い男女がいるが、二人とも何事もなく携帯電話を眺めている。ハチも動かないので、死んでいるのだなと、私はそのまま座って本を読み始めた。

 五分ほどたったころ、首筋にモソモソとしたものを感じた。小さな虫か長い髪の毛かそんな軽い感触を手で払いのけた。すると直後に、首筋により大きなモゾモゾが伝わった。驚愕してその異物を払いのけたとき、右耳の付け根に鋭い痛みが走った。私は瞬時にハチだと思った。両隣の男女が訝(いぶか)しい顔をして私を見ている。

「ハチです」

 頬を押さえながらいうと、二人とも腰を浮かせた。払いのけたハチが隣の女性の足元に落ちたような気がして、周囲を探したが見当たらない。女性は二十二、三歳だろうか。アドリア海のような鮮やかな青のカラータイツを履いていた。アドリア海なるものがどこにあってどんな海なのかは知らないが、そういう形容をしたいような真っ青なタイツが彼女の太股を包んでいた。

 三人でハチの行方を捜していると、その女性のもうひとつ隣の若い女性が、キャーと叫んで飛び上がった。ハチがその女性の足元から飛び立ったのである。立っている人の脚に止まったかと思うと、向かいの座席の子供連れの母親に向かって行ったり、瞬く間に車内は騒然となった。まるで電車の中をイノシシが駆け回っているか、凶器を持った犯人が暴れているかのように。どうしてハチなんぞでそんなに騒ぐのか。やがて、立っていた男性がハチを踏みつけ、一件落着となった。

 私の座った席がポツンと空いていた理由が、初めて腑に落ちた。ハチは、座席を伝って私の背広をよじ登り、ワイシャツの襟口から中に入ったようだった。ネクタイをしていなかったのと、うつむいて本を読んでいたので、襟口が広く開いていたのだ。

 小さいころ山へ行って、クモが背中に入ったり、芋虫、毛虫の類が入ったことは何度もあったが、ハチを入れたのは初めてである。中学のとき、一緒にキャンプへ行った友達が早朝に目を覚まし、私の飲みかけの缶ジュースを失敬してハチの一撃をくらったことがある。

「イデ、デ、デ、デ、デッ!」

 と吐き出した黒豆がハチだった。人間は、口の中にハチが入っていても、とりあえずは「痛い」というんだな、と感心した記憶がある。刺された友達は、しゃべることもできず、痛みに顔を歪めて涙を流していた。

 クロマルハナバチは、脚も含めて体全体が剛毛で覆われている。親指の先ほどの丸々としたハチが電車の床に転がっているのを眺めながら、今更のように首筋を上る感触を思い出していた。

 その後、私の隣でしきりに携帯をいじっていたアドリア海の女性が、突然、

「ハチに刺されたときは、患部を強くつまんでください」

 といって、その携帯の画面を見せてくれた。携帯のサイトでハチに刺されたときの対処方法を調べていたのである。私はその女性にグッと好意を持った。

「気分は悪くないですか。アンモニアがあるといいんですが」

 と膝の上のバックからポーチを取り出し、ゴチャゴチャ入っている化粧品類をかき混ぜ、容器に貼ってある成分内容を確認している。私は、色白で人懐っこそうな彼女の横顔を盗み見ていた。

「あれが首に入ったンですよね」

 という彼女の顰(しか)めた顔は、今時の若い女性には珍しく好意的で慈愛に満ちていた。

 クロマルハナバチといえば、小学生のころによく捕まえたものである。ハチの尻を割ると、中から透明な袋に入った雫のような蜜の玉がポロリと出てくる。それを食べるというか舐(な)めるのが目的だった。ハチには何度も刺された経験がある。その対処法は熟知していた。患部に口をつけて毒素を吸い取り、そこに小便をかけるとやがて痛みは治まる。回りの友達もみんなそうしていた。まともに刺されれば、のた打ち回るほどの激痛なのだが、今回は軽く刺されただけなので、ズキズキと疼くだけであった。多少腫れ上がって熱を帯びてはいるが、たいした問題ではない。だが、彼女に頬っぺたを吸ってくれとは冗談でもいえない。ましてや小便を口にしたら……即刻退場である。しかたなく、何も知らないような顔で、

「ああそうですか、ありがとうございます」

 と何故か敬語で答えていた。親しく話をしたいという思いがあったが、変なオジサンと思われたくないので、抑えたのだ。それまで熱中して読んでいた本に再び目を落としたのだが、何を読んでいるのかさっぱり頭に入ってこなくなってしまった。

 やがて下車駅となり、私は席を譲ってもらった年寄りのように、

「どうもありがとうございました」

 とアドリア海の女性に深々と頭を下げ、「かわいそうなことをしましたね」と転がっているハチを指差すと、「どうぞおだいじに」と例の魅力的な顰めた笑顔が返ってきた。

 若い女性に親切にされ、年甲斐もなく心ときめいたのだが、その心臓のドキドキがそのまま頬の疼きに連動していた。気分よく帰宅すると、手ぶらの私を見た妻が、

「あー、忘れたでしょ」

 と憮然としている。帰りにスーパーで買い物を頼まれていたのである。

 その後、頬の疼きは数日間続いた。疼く頬にそっと手を当てながら、そのたびにアドリア海の余韻にひたっていた。

              平成二十年九月 白露  小 山 次 男