Coffee Break Essay
この作品は、2015年9月発行の同人誌「随筆春秋」第44号に掲載されております。
小学校高学年から中学生といった年齢の子供たちが、十五人ほどいただろうか。そのなかには、女の子も四、五人混じっていた。雪のない季節だったので、人工芝でのジャンプである。
子供たちが次々に空を飛んでいく。それは信じがたい光景だった。なぜ、あんな高いところから猛スピードで飛び降りることができるのか。彼らなら清水の舞台から飛び降りることなど、なんなくやってのけるだろうと思った。観光客は、ひっきりなしに飛んでくる子供たちに、大きな歓声を上げていた。リフトで上に上がっただけで、足がすくみめまいがする高さである。彼らは、将来のオリンピック候補選手に違いない。末恐ろしさを感じた。
この大倉山シャンツェでは、ちょっとしたハプニングに見舞われた。まず、ジャンプ台に上る前に、その下にあるミュージアムに入ることにした。大倉山シャンツェといえば、一九七二年の札幌オリンピックで笠谷幸男以下三人の「日の丸飛行隊」が金銀銅を独占したあのジャンプ台である。当時、私は小学校六年生だった。ミュージアムには、その当時の展示物がある。
入り口で入場券を求める際、母の高齢者証明証を持参していないことに気がついた。高齢者は割引になるのだ。受付の女性にそのことを告げると、生年月日を言ってくれればそれでいい、とにこやかに言われた。七十九歳の母は、どこから見ても高齢者である。四十代くらいの感じのいいきれいな女性だった。少し認知症が入っていて、自分の年齢すら思うように答えられない母が、よどみなく、
「昭和十年五月……」
と答えた。四年前に大腿骨を骨折した母は、長い距離を歩くことができず、このときも私が車椅子を押していた。すると受付の女性が満面の笑みを浮かべ、
「ハイ、いいですよ。では、シニア二枚、大人一枚ですね」
と不思議なことを言った。
(シニア二枚……)
何のことだ、と思っていると、妹が間髪入れずに、
「ハイ、それでいいです」
と言ってあらぬ方向を見ている。笑いをこらえているのだ。ミュージアムの中に入った妹は、小便をモラさんばかりに笑い転げた。
受付の女性は、母と私が夫婦で、妹を娘と見定めたのだ。私は五十四歳である。一歳半下の妹と私が夫婦に間違えられるのならともかく、母と間違われたのだ。シニアとは六十五歳以上の割引である。五十四歳の私が、六十五歳以上に見られたのだ。妹曰く、
「アンタがそんな顔だから、安上がりで助かるわ」と。
私は、一昨年まで室蘭にいた。近所の銭湯によくかよっていたのだが、その銭湯で六十五歳以上に間違われていた。その日は敬老の日で、高齢者は入浴無料だった。このとき番台に座っていたのは、八十過ぎの婆さんだった。ババアだから仕方ないと思ったが、今回の受付の女性は、四十代前半くらいの年齢である。落雷に打たれたようなショックを受けた。
このときの私の服装は、グリーンのタータンチェックのカッターシャツの上にグレイのパーカーを着、その上に黒のダウンのベストを羽織っていた。下はベージュのメンパンである。カッターシャツはズボンに入れずに、わざわざスエットの下から見えるように出していた。若作りのつもりだった。服装には結構気を遣っているのだ。問題は顔と頭である。
顔はほどほどのイケメンなのだが、頭がダメだ。まるで病気の犬のような頭なのだ。昔は台風の目のようなちゃんとしたつむじがあったが、そのつむじもとうの昔に温帯低気圧に変わっている。張り出した高気圧のように、ハゲが次第に拡大しているのだ。こればかりはどうしようもない。
だが、大倉山から一ヵ月も経たないうちに、ふたたび事件は起こった。スーパーで買い物をしていたときのこと。六十代と思しきオバサンが、食品売り場で試食のすき焼きを母に勧めた。そのときも私が母の車いすを押していた。母がすき焼きを受取った直後、
「ダンナさんもどうぞ」
とすき焼きを差し出したのだ。
(ダンナさん?……)
私は一人でいるときも、「ダンナさん、どうですか、安くしておきますよ」という声掛けを受けることがある。そういう年齢なのだから仕方がない。だが、今回の「ダンナさん」は、いつものダンナさんとは明らかにニュアンスが違っていた。言われた瞬間「ババア、間違いやがったな」と思った。だが、文句は言えない。間違った相手が悪いのではない。そう見えた私のほうに問題があるのだ。
これは憂うべき事態である。なにせ私はこれから恋愛をして、再婚をしなければならない。このままでは、マズい。さて、どうしたものか。
今回の年齢誤認は、まさにK点越えの大ジャンプ、極めてショッキングな出来事だった。
平成二十六年十二月 小 山 次 男 |