Coffee Break Essay



  『二度目の祝電』




「祝優勝! 阪神タイガース!/毎年毎年、今年コソハト祈念シツツ空シキ月日十八年、トウトウヤッタネ。待ッテ待ッテ、待タサレタ分、喜ビモヒトシオト思イマス。存分ニ酔ッテ下サイ。/今年ノタイガース、本当ニ最高デシタ/オメデトウ!」

阪神タイガースが十八年ぶりにリーグ優勝を決めた日(平成十五年九月)、
姫路にいる学生時代の友人中谷にこんな祝電を打った。
この男、極めつけの阪神ファンである。
彼と京都で四年間同じアパートで過ごしたばっかりに、ゆるぎない巨人ファンであった私自身もかなりの阪神ビイキに傾いていた。
但し、電報を打つに当たっては、少なからぬ躊躇いがあった。
実は、十八年前の優勝の日にも、私は祝電を打っていたのだ。
その祝電が、あろうことか中谷の祖父の通夜にぶつかってしまった。
一同悲しみに暮れる辛い夜、次々に届く弔電の束の中に、場違いな祝電が交じってしまった。

しかも去年の夏、この無礼話しをエッセイに書いて、ある同人誌(随筆春秋)の公募に応募したところ、優秀賞を頂いてしまった。
原稿の締切が去年の八月であり、今回の優勝など予想も出来なかったのだが、
今回の祝電がまた先方に良からぬ椿事(ちんじ)でも引き起こすのでは・・・と一瞬二の足を踏んだという訳である。
が、今回こそは是が非でも祝電を打たなければならぬ状況にあった。
同人誌に発表されたエッセイを中谷へも送って、たいそう喜ばれていたから、
今回の大偉業を前に傍観している訳にはゆかぬ。
更に、十八年前の醜態のお詫びと、それをネタにして栄誉を得た後ろめたさの清算もしたかったのである。

かくして、恐る恐る祝電を打った。
もちろん最高級の刺繍電報であり、優勝が決まる二時間も前に打っていたので、
中谷家に祝電が届いたのが胴上げの直後という絶妙のタイミングとなった。

優勝が決った直後、電話が鳴った。

「ユーショーや、ユーショーやで。ホーンマ、長かったァー。感無量や。もう、サイコーやな・・・」

ワーともオーともつかぬ、まるで野獣そのもののような雄叫びに、
地響きのような彼の心中が伝わってくる。
心から喜んでくれた友に感謝し、受話器を置いてホッと安堵の溜息をついた。

だが実は今回、私は阪神の優勝を手をとり合って喜び合える心境にはなかったのだ。
後日改めてお礼の電話が中谷からあった時、「どうや、みんな元気か」と間違いなく言われる筈だ。
それを思うと心が重かった。
祝電への躊躇いも、一番の理由はそこにあったのである。

妻は、阪神優勝の三週間前から入院している。
六年前から精神疾患を患っていたのだが、この夏のある日、襲ってきた深い絶望感に苛まれた末に、処方されている薬を大量に飲んでしまう。そして、

「もう私は十分に生きました。これ以上生きている意味が見出せません・・・」

どこかその辺にでも出かけるような調子の置手紙を残して、旅立とうとした。
夜中のことだったので発見が遅れ、本当に間一髪の生還だった。
更にそれからひと月も経たぬうち、また不安定な状態になってきたので、
自ら希望してかりつけの大学病院に入院したのだった。

妻が発病してからというもの、家事の一切を私が行なっている。
近所に頼れる身内はいなかった。今でも私は忘れない。発病の頃、

「ねえ、ママ、なんか変・・・本当のママじゃないみたい」

小学二年だった娘の痛恨の一言。以来私は心に誓った。
娘にだけは寂しい思いをさせまい、と。
そして、サラリーマンとして、残業も出張も、転勤すら出来なくなった私は、子会社へ転籍となる。

月日は流れて、「俺は負けない。絶対に諦めない。闘ってやる!」という気負いも、かなり息切れが出てきた頃、あのエッセイの受賞だった。
私はファイティングポーズも新たに、力強く立ち上がった。
幸にもこの六年、娘は暗い影もなく健やかに成長し、今、中学二年である。

予想通り翌日夜、中谷から改めて電話があった。
彼と弾むやりとりをしているうち、低徊(ていかい)していた心はいつの間にか明るくカラリとなっていた。
妻のこともフランクに打ち明けられた。
事情を聞いたとたん中谷は絶句し、涙声になった。
「気にしないで。俺は負けないから」と、あべこべにこちらが慰めたほどだった。

数日後、中谷からタイガースの優勝記念Tシャツが送られてきた。
そのTシャツ胸には、「We did not give up!」という特大の文字があった。
その文字がみるみるぼやけてきた。

次の優勝の時も、中谷と手をとりあって、心の底から喜びを分かち合いたい。
それが夢である。ただし、十八年も待たされるのだけは、ゴメンである。


                     平成十五年十二月  小 山 次 男